も、あの方船に乗って、運命の海を漂流するとしようか」老博士はやっと歩き出した。
 人造島は刻々に溶けてゆく。あと、一時間と経《た》たぬうちに、洋上の浮島は、跡形もなく消え失せるだろう。人々は先を争うて、白堊の建物へのがれたが、果して方船は人々を収容して、海洋に浮び、潮流に乗って、大陸へ無事に流れて往くであろうか。老博士は、確信をもって、方船に避けよと勧めたのか。運命の方船よ。おまえは、果して、海洋に浮んでくれるか。

   三 心臓と科学

 どろぼう船が、亡霊のような怪老人の出現によって、いつのまにか、幽霊船となり、僕と豹《ひょう》のような水夫が、海へ飛込んだまでは、読者諸君も、すでに御承知のことだが、その後、幽霊船|虎丸《タイガーまる》はどうなったか。
 物語は、しばらく運命の方船《はこぶね》を追わず、幽霊船虎丸の甲板へ戻るとしよう。さて、幽霊船虎丸の甲板の、亡霊のような怪老人は、五ツの屍骸《しがい》の横《よこた》わる中甲板を、血の匂《にお》いを嗅《か》ぎ、よろよろ歩き廻りながら、不気味な薄笑いを洩《もら》した。
「そろそろ仕事をはじめるかな」怪老人は、そのまま船室へ姿を消したが、すぐに大きな鞄《かばん》を提げて現われた。五ツの屍骸《しがい》に、ガラスのような瞳《ひとみ》を投げながら、
「どいつを、料理《まかな》ってやろうかな」
 と、呟《つぶや》いた。いよいよ不気味なことを云う。
 鞄の中から、いろんな怪しい道具を取出した。それは外科手術用の鋸《のこぎり》や、メスや、消毒剤などだ。メスを握り、白衣《びゃくえ》の腕をまくり、大男の屍骸に居ざりよって、
「久しぶりで、肉を裂くのか。堪《たま》らないなア」
 と、またも呟いた。おお、怪老人は、メスを揮《ふる》って、大男の肉を裂き、肉を啖《くら》おうというのか。
 怪老人は、大男の屍骸の胸をひろげ、左胸部のあたりに、ぐさりメスを突立て、肉を抉《えぐ》り取ったが、それを、一口に啖うと見ていると、そうではなく、なおもメスを突立て、まもなく、大男の血の滴る心臓をつかみ出した。
「なかなか見事見事」それを片手に持って眺め廻したが、こんどは、陳《チャン》君の屍骸《しがい》に居ざりより同じように、胸をはだけ、左胸部にメスを突立てた。手を入れて、つかみ出したのは、銃弾に射貫《いぬ》かれて、めちゃめちゃに砕けた陳君の心臓だった。
「ほう、これは、台無しだ」
 二つの心臓を両手に持って、やや暫《しばら》く眺めていたが、銃弾に砕かれた陳君の心臓を、ひょいと海へ投げすてて、大男の心臓を、ていねいに消毒して、陳君の左胸部の穴へ押込んだ。
 怪老人は、大男の心臓を、陳君の左胸部へ移し植え、血管をつぎ合したり、収斂《しゅうれん》、止血剤を施したり、大童《おおわらわ》になって仕事をつづけたが、やがて、左胸部の創《きず》を縫合せてしまうと、ほっと一息入れ、
「もうこれでよし」と、自信ありげに、独《ひと》り呟《つぶや》いた。ややあって、陳君の屍骸の白蝋《はくろう》のような顔に、一抹《いちまつ》の血がのぼると、
「う……」と、呻《うめ》きだし、微《かす》かに身動きした。
「おお、やっと生きかえったかな。わしの大手術の成功じゃ」怪老人は、陳君の屍骸の手を執って、脈搏《みゃくはく》を数えはじめた。
 船長室のベッドに寝かされてから、やっと、陳君は、我にかえった。
「はてな、僕は生きていたのかしら」
 ふしぎで堪らない。豹のような水夫に背後からピストルを射《う》たれ、左胸部を貫通され、ばったり甲板に斃《たお》れたはずの自分が、船長室のベッドのうえで、意識を取返すなんか、有りうべからざることだ。
 夢ではないかとおもったが、夢ではない証拠に、左胸部の創《きず》が、烈《はげ》しく痛んでいる。咽喉《のど》が渇いて、相当に高熱だ。
「奇蹟《きせき》だ!」陳君は、おもわず呟くと、
「いや、奇蹟ではない。科学の勝利じゃ」
 と、応えるものがあった。顔をあげてみると、ベッドの傍《そば》で白衣《びゃくえ》白髪の怪老人が葉巻をくわえながら、薄笑《うすわらい》をうかべている。
「あッ!」
「驚くことはいらぬ。わしは、亡霊ではない。このとおり、足もくっついているよ。ハ……」
「あなたは、何処《どこ》から来たのです?」
「わしは、元からこの船にいたよ。このどろぼう[#「どろぼう」に傍点]船の船医じゃ」
「山路君は?」
「わしに怖《おそ》れて、海へ飛込んで死んだよ」
「えッ! では、豹《ひょう》のような水夫は? 僕をピストルで射殺したあの水夫は……」
「あれも、ボーイと一緒に、海へ飛込んだ。いまごろもう、鱶《ふか》の餌食《えじき》になったことだろう」
「では、もうこの船には?」
「そうじゃ、おまえと、わしと二人きりじゃ」
「僕は、ほんとうに生きて
前へ 次へ
全25ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺島 柾史 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング