現われたのか、船室の降り口のところに、白衣《びゃくえ》を着た、白髪の老人が、亡霊のように立っているではないか。しかも、彼は、歯の無い口を開いて、
「ワハハハハハハ。おまえたち、甲板のうえで、生命のやり取をしても無駄だろうぜ」
と、不気味に、冷たく笑った。
「てめえは、誰だ」
豹のような水夫は、恐怖におびえた眼で、怪老人を睨めつけながら云った。
「わしこそは、この船の主人じゃ。おまえたち、生命のやり取を、止《や》めて、はやく、この船を退散しろ」
「何を!」
水夫は、こんどは、亡霊のような怪老人に、ピストルを向けた。
「ワハハハハハ。若いの、そいつは無駄さ。おまえが、わしの胸を射貫《いぬ》いても、この船には長く居られまいぞ」
「え! 何故だ」
「船底の、火薬庫が、あと三分で、爆発するだろ」
「えッ!」
「わしは、たった今、火薬庫に、導火線を投入れ、その先に火を点《つ》けて来たのさ。導火線は、あと三分。いや二分で、燃え尽きるだろう」
「えッ!」
豹のような水夫は、これをきくと、反射的に駈け出した。たぶん、端艇《ボート》を探し廻ろうというのだろう。だが、端艇は一艘も本船に残っていない。これに気がつくと、水夫は、真蒼《まっさお》になって顫《ふる》え上った。
僕は、このまに船橋《ブリッジ》の柱に架けてあった浮袋《ブイ》を外して、それを身に着けた。何しろ、あと二、三分で、一千五百|噸《トン》の汽船が、爆破して、木葉微塵《こっぱみじん》になるのだ。愚図愚図していられない。僕は、素早く浮袋を身に着けると、そのまま、身を躍らして、海中に飛込んだ。
このさまをみた、豹のような水夫も、急いで、浮袋を身に着けると、僕にならって、海中へ身を躍らした。
亡霊の仕業か
北太平洋の浪《なみ》は、さすがに高かった。
僕も、水夫も、巨浪に飜弄《ほんろう》されながら、懸命に、本船から遠ざかろうと努めた。
が、二分|経《た》っても、五分過ぎても、冷凍船|虎丸《タイガーまる》の火薬庫は爆発しそうにもなく、本船は悠々潮流に乗って、可成《かな》りの速さで、僕等を遠ざかって往《い》く。しかも、甲板のうえでは、白衣の怪老人は、僕等を見送りながら、相変らず、冷笑をうかべている。
「失策《しま》った!」
僕は、おもわず叫んだ。
「ど、どうした?」
水夫は、飛沫《しぶき》を避けながら、僕の方へ近寄ってきて訊《たず》ねた。
「あの、怪老人に、一杯|喰《く》わされたぞ」
「うむ」
「火薬庫が、一向に爆発しないじゃないか。あの怪老人、うまく僕等をだましたのだ」
「なるほど……」
水夫は、今になって、しきりに感心している。
「こうなれば、船に泳ぎついて、あの怪老人を退治てやらねばならん」
僕は、巨浪に逆《さから》って、抜手を切った。水夫は、そのあとを追って、
「だが、船は、潮流に乗って、あの速さで走っているぜ。とうてい追いつけまいよ」
「だが、口惜《くや》しい。あんな、老人にだまされたかとおもうと……」
「それに、あの老人は、ひょっとすると、亡霊かもしれんぜ」
「どうして?」
「だって、本船には、最初からあんな老人が乗組んでなかったはずだ。……そ、それに、乃公《おれ》ア見たが、あの老人には、足が無かったようだぜ」
「そんなことがあるものか。亡霊など出てたまるものか」
「いや。虎丸《タイガーまる》は、これまで北洋で、たくさんの東洋人を殺したので、その亡霊が、老人の姿になって現われたのだろう。乃公は、たしかに見たよ。あいつには、足が無かった」
「じゃ、亡霊が、何のために、僕等を、船から追出したのだ」
「亡霊だって、冷凍室のラッコが欲しいだろう」
「そんな、莫迦《ばか》なことがあるものか。亡霊が、ラッコの皮を売ってどうするンだ」
「なるほど、そいつもそうだ」
水夫は、肯《うなず》いたが、しかし、怪老人の姿をおもいうかべると、ぞっとした。果して亡霊だろうか、仮面の怪人物か。その謎《なぞ》の解けぬうちに、虎丸は、僕等とは、可成り距《へだた》ってしまった。およそ、十数分も経ったが、火薬庫など爆発しやしない。潮流に乗って、悠々と、南々東を指して流れて往く。
僕も、水夫も、北太平洋の真ン中に、置去りにされてしまったのだ。しかも、浮袋《ブイ》一つに生命を托して、ひょうひょうと巨浪に飜弄されている。
もうすでに夕暮だ。赤い太陽が、西の空に沈もうとしている。海は、黄金を撒《ま》いたように輝いているが、それを眺めて楽しむどころではない。夕方でも、この寒さだから、夜になったら、一層寒さが加わるだろう。水が刃《やいば》のように肌を刺し、僕等は、明日を待たず、凍死するにちがいない。
「ひでえことになったなア」
豹《ひょう》のような水夫も、さすがに心細くなったとみえ、今はもう
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