知れません、秀さん、あッちへ往ッて見ましょう」
 走《か》け出して見た、が見当らぬ,向うかも知れぬ、とまたその方へ走け出して見たが見当らぬ,困ッた。娘はさも心配そうにしきりと何か考えていたが、心細そうな小さな声で,
「秀さん、あなた、道を知ッていますか?」
 自分とてこのへんはめッたに来たことのないところ、道を知ろうはずはない、が方角だけはようようと考えついた。
「いいえ、よくは知らない,けれどこッちの方が境だから、右の方へずんずん往きゃア、あの、きッと境へ出るから、そうすりゃア、もうわけはない。もしか見つからなきゃア、なんの、先へ帰ッてしまいましょう」
 娘はしばらく考えていたが、少しは安心した様子であッた。
「もし先へ帰ッたら、きッと皆さんが心配しましょう。それにせっかく一しょに参ッたものを」……少し考えていたが、「まアこッちの方へ往ッて見ましょう、もう一度,今度はどこまでも往ッて見ましょう。よウ、何をぼんやりして……秀さん」
 また歩き出した。
 少年のころは人里離れた森へなど往くのは、とかく凄《すご》いように思うものだが、まして不知案内の森の中で、しかも大勢で騒いでいた後、急に一人か二人になッて、道に迷いでもすると、何となく心細くなるもので。自分も今日のようなことにもし平常の日に出遇ッたならば、定めて心細く思ッたのであろう,がしかし愛というものは奇異なもので、(たといこの時自分は娘を慕ッていたと知ッていなかッたにしろ)隠然と愛が存していたので心細いとは思わなかッた,むしろこの娘とたッた二人、人里を立ち離れた深林の中に手を携えていると思うと、何となく嬉しい心持がして、むしろ連れの者に見つからなければいいというような、不思議な心持がどこにかあッて、そして二人して扶《たす》けあッて、木の根を踏みこえて走けて往くのを、実に嬉しいと思ッていた,自分は二町ほどというものは、何の余念もなくただうかうかと、ほとんど夢中で走ッて往ッた。すると突然目の前に大きな湖水が現われた。
 はるかに向うを見渡すと、森や林が幾里ともなく続いているが、霞に籠《こも》ッて限りもなく遠そうだ、近いところの木は梢を水鏡に写して、倒《さかさ》に水底から生えているが、その水の青さ、いかにも深そうだ,薪《まき》を積み上げた船や筏《いかだ》が湖上をあちこちと往来しているが、いかさま林から切り出したのを、諸方に運送するものらしい。日はもウ七ツ下り、斜めに水を照らし森を照らして、まことにいい景色である,がもう見る気はない,娘が貌《かお》に失望の意を現わして、物をも言わず、悄然《しょうぜん》として景色を眺めつめているのを見ては。
「おや、こんな大きな沼があるようでは……こちらでもなかッたと見えますねエ、しかたがない、後へ戻《もど》りましょう」
 娘は歎息《たんそく》したがどうも仕方がない、再び踵《きびす》を廻《めぐ》らして、林の中へはいり、およそ二町余も往ッたろうか、向うに小さな道があッて、その突当りに小さな白屋《くさのや》があッた。娘はこの家を見ると、少し歩くのを遅くして、考えている様子であッたが、
「秀さん、ちょうどいい。あすこの家へ往ッて頼んで、皆さんを尋ねてもらいましょう。それに皆さんも私たちを尋ねて、ひょッと彼家《あすこ》へでも尋ねて往ッて、もし私たちが来たら止めておくようにと頼んであるかも知れません,まァ彼家《あすこ》へ往ッて見ましょう」
 自分は異議なく同意して、いきなりその家へ飛び込んだ。家では老夫婦が糸を取り、草鞋《わらじ》を作ッていたが、われわれを見てびッくりした様子,自分は老婆に向い,
「おイ婆《ばあ》やア、誰か尋ねて来なかッたかい、おいらたちを」
「はアい、誰もござらッさらねエでしたよ」老婆は不審そうに答えた、「誰か尋ねさッしゃるかな、お坊様」
「蕨採りに来たのだが、はぐれてしまッたの、連れの者に。おイ、老爺《じい》や、探して来てくれないか、ちょッと往ッて」
 自分が唐突《だしぬけ》に前後不揃いの言葉で頼んだのを、娘が継ぎ足して、始終を話して、「お気の毒だが見て来て」と丁寧に頼んだ。
「それエ定めし心配していさッしゃろう、これエ爺様《とッさま》よう、ちょッくら往ッて見て来て上げさッせいな」
 最前から手を休めて、老父は不審そうに見ていたが、
「むむ見て来て上げべい。一ッ走り往ッて」
ト言ッたが、なかなかおちついたもので,それから悠然《ゆうぜん》と、ダロク張りの煙管《きせる》へ煙草を詰め込み、二三|吹《ぷく》というものは吸ッては吹き出し、吸ッては吹き出し、それからそろそろ立ち上ッて、どッかと上り鼻へ腰を掛けて、ゆッくりと草鞋をはき出した。はいてしまうと、丁寧に尻を端折ッて、さてそこでやッと自分に向ッて、
「坊様、どッちらの方でさアはぐれさしッただアの?」
 自分は方角を指し示した。老婆は老爺《じい》の出て往くのを見送り、それから花筵《はなござ》を引き出して来て、
「さア嬢様。お掛けなせいまし、そこはえらく汚ねエだから。さお坊様掛けさッさろ」
「婆やア湯をおくれ、気の毒だが」
「湯かのう? 今上げますで、少し待たッせい,一ッくべ吹《ふ》ッたけるから。
 老婆が鑵子《かんす》の下を吹ッたける間、自分は家の内を見廻した。この家は煤《すす》だらけにくすぶり返ッて、見る影もないアバラス堂で、稗史《よみほん》などによく出ている山中の一軒家という書割であッた。そのうちに鑵子の湯は沸き返ッたが、老婆は、ヒビだらけな汚ない茶碗へ湯を汲《く》んで、それを縁の欠けた丸盆へ載せて出した。自分は喉が渇《かわ》いていたから、器《うつわ》のきたないのも何も知らず、ぐッと一息に飲み、なお三四杯たてつけに飲んだ,娘は口の傍へ持ッて往ッて見て少し躊躇《ためら》ッていたが、それでも半ば飲み干した,この時自分は、「さても鑵子の湯はうまいものだ」と思ッた。
 この老婆は誠に人のよさそうな老婆で、いろいろなことを話しかけるので、娘はその相手をしていた。自分はまたかかる山家へ娘と二人で来て、世話になるというのは、よほど不思議なこと、何かの縁であろうと思ッた,それが考えの緒《いとぐち》で、いろいろのことを思い出した。すなわち、このような山中で、竹の柱に萱《かや》の屋根という、こんな家でもいいによッて、娘と二人していたいと思ッた,するとその連感で、自分は娘と二人でこの家の隣家に住んでいる者で、今ちょッと遊びにでも来た者のような気がした,するとまた娘の姿が自分の目には、洗《あら》い晒《ざら》しの針目衣《はりめぎぬ》を着て、茜木綿《あかねもめん》の襷《たすき》を掛けて、糸を採ッたり衣《きぬ》を織ッたり、濯《すす》ぎ洗濯、きぬた打ち、賤《しず》の手業《てわざ》に暇のない、画にあるような山家の娘に見え出した、いや何となくそのように思われたので。それゆえ自分は連れにはぐれて、今ここへ来ている者だなどということは、ほとんど忘れたようになッていた。不意に表の方が騒がしくなッた。
 自分は覚えず貌を上げてそして姉を見た。
「おお秀坊が!」
 第一に姉が叫んだ。
 誰しも苦痛心配は厭《きら》いであるが楽になッてから後、過ぎ去ッた苦痛を顧みて心に思い出したほど、また楽しみのことはない,それと大小の差はあるが、心持は一ツだ。昼間自分たちのはぐれたのは、一時は一同の苦痛であッたが、その夜家へ帰ッてから、何かにつけてそのことを言い出しては、それが笑いの種となり話の種となッた時には、かえッて一同の楽しみとなッた。自分は娘が嬉しそうな貌をして、この話をしている様子を見て、何となく喜ばしく、そして娘も苦痛を分けた人が自分であると思うと、一層喜ばしく、その日の蕨採りは自分が十四歳になるまでに絶えて覚えないほどな楽しみであッた、と思ッた。しかし悲喜哀歓は実にこの手の裏表も同じこと、歓喜《よろこび》の後には必ず悲しみが控えているが世の中の習わし。平常は自分はいつも稽古に往ッていて、夜でなくては家にはいない、それゆえ何事も知らずにいたが、今宵《こよい》始めて聞いた,娘は今度逗留中かねて世話をする人があッて、そのころわが郷里に滞在していた当国|古河《こが》の城主土井|大炊頭《おおいのかみ》の藩士|某《なにがし》と、年ごろといい、家柄といい、ちょうど似つこらしい夫婦ゆえ、互いに滞留しているこそ幸い、見合いをしてはと申し込まれたので、もとより嫁入り前の娘のことゆえ、叔父もたちまち承諾して見合いをさせたところ、当人同志の意にもかない、ことに婿になる人が大層叔父の気にかなッたとやらで、江戸へ帰ッたらば、さらに仕度をさせて、娘を嫁入らせるということを聞いた。
 これを聞いた自分の驚きはどんなであッたろう、五分も経《た》たぬうち、自分はもウわが部屋で貌を両手へ埋めて、意気地《いくじ》もなく泣いていた。
 その夜|臥《ね》てから奇妙な夢を見た、と見れば、自分は娘と二人でどこかの山路《やまじ》を、道を失ッて、迷ッている。すると突然傍の熊笹《くまざさ》の中から、立派な武士《さむらい》が現われて、物をも言わず、娘を引ッさらッて往こうとした。娘は叫ぶ、自分は夢中、刀へ手を掛ける、夢中で男へ切りつける、肩口へ極深《のぶか》に、彼奴《かやつ》倒れながら抜打ちに胴を……自分は四五寸切り込まれる、ばッたり倒れる、息は絶える,娘はべッたりそこへ坐ッて、自分の領《えり》をかかえ抱き起して一声自分の名を呼ぶ,はッと気がついて目を覚ます……覚めて見ると南柯《なんか》の夢……そッと目を開いて室を見廻わして、夢だなと確信はしたが,しかしその愛らしい優しい手が自分の領を抱えて、自身が血に汚《よご》れるのも厭《いと》わず、血みどりの体を抱き起して、蕾《つぼみ》のような口元を耳の傍へ付けて、自分の名を呼んだ時の貌、その貌はありありと目に見える,それに領は、どうしても、たッた今まで抱えられていたような気がする、そッと領へ手をやッて見ると、温かい,静々室の内を見廻わして見たが、どうも娘がいたようで、移り香がしているような気がする、さアそう思うと、気が休まらぬ。床の上へ起き直ッて耳を清《すま》して見ると、家内は寂然《しーん》としていて、鼠《ねずみ》の音が聞えるばかり……自分はしばらく身動かしもせず、黙然としていたが,ふと甲夜《よい》に聞いたことを思い出して、また何となく悲しくなッて来た。
 さて翌日となッた,明日の晩は叔父も娘も船路で江戸へ帰るから、今宵一夜が名残りであると、わずか十里か十五里の江戸へ往くのを天の一方へでも別れるように思ッて、名残りを惜しむ一同が夜とともに今宵を話し明かそうと、客座敷へ寄り集まッた。自分は悲しさやる方なく、席へ連なるのも気が進まぬゆえ、心持がわるいと名を付けて、孤燈の下にわが影を友として、一人室の中ですねていた,が暫時はこうしていたようなもののそのうちに、娘はどうしたか、という考えが心の中でむずついた。もウ棄ててはおかれぬ、そッと隣座敷まで往ッてはいろうか、はいるまいか、と躊躇《ためら》いながら客座敷の様子を伺うと、娘は面白そうにしきりに何か話していた。自分のことなどは夢にも思ッていないようで。こう思うと気がもしゃくしゃとして来た、すぐに踵《きびす》を廻らして室へ戻り、机の上へ突ッ伏してただわけもなく泣いていた。しばらく経つと、唐紙の開くような音がして、誰だか室へはいッて来た、見れば姉で、祖母《ばば》さまがあちらへ来いと言うからおいで、と言ッていろいろ勧めた,自分の本心は往きたかッたので渡りに舟という姉の言葉、すぐ往けばよかッたが、そこがわがままッ子の癖で,――お泣きでないよ、と優しく言われると、いよいよ泣き出したがるようなもので――勧められるほどいよいよすねて,
「厭だと言ッたら厭だい。馬鹿め」
 姉はあきれて往ッてしまッた,もう往く機会は絶えた、一層わが身を悔んでわれとわが身に怒ッていると、次の間へ人の足音がして隔ての襖《ふすま》が開いた。姉だと思ッてふり向きもせず、知らぬ貌をしていると、近づいた人は叱るような調子で,
「何をしておいでなさ
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