るの」と言ッて自分の手を押さえて、「そんな悪戯《わるいたずら》をするものではありませんよ」
自分はこの時|癇癪《かんしゃく》を起して、小刀で机を削ッていたので……また削ろうとした。
「よすものですよ」と言ッて自分の泣き貌を見て、「おや、どうなすッたの。何を泣いていなさるの。え。え」
自分はこれを聞くと、わけも道理もなく悲しくなッて来て、たださめざめと泣き出した,すると娘は自分の肩へ手を掛けて、机に身を寄せかけて、清《すず》しい目を充分《いッぱい》に開いて、横から自分の貌を覗《のぞ》き込んで,
「なぜお泣きなさるの、何か悲しいことがあるの。え。お腹《なか》でも痛いの。え。え。気分でもわるいの」
自分は首《かぶり》をふッた。
「そうではないの。それではどうしなすッたの、泣くものではありませんよ。よ。よ」
自分は袖《そで》でいきなり泣き貌をこすッて、
「お姉さま……あなたは……あの明日《あした》もウ帰るんですか……どうしても」
娘はしけしけと自分の貌を見ていたが、物和《ものやわ》らかに、
「秀さん、それであなた泣いていたの」
首をかしげて問《たず》ねたが、自分が黙ッていたのを見て、自分の頭《かしら》を撫でようとした、自分はその手をふり払い、何か言ッてやろうと思ッたが、思想がまとまらなかッた。
「お姉さま、あなたは……、あの、あの悲しくも何ともないの……皆《みんな》に別れるのが」
娘は眉を顰《ひそ》めて、不審そうに自分の貌を見ていたが,
「おやなぜ? 悲しくないことはありませんが,もウ父上《おとッさん》も帰らなければなりませんし……それにいろいろ……」言おうとして止め、少し考えていて,
「秀さん、私ももウ今夜ぎりで帰るのですから、仲よく遊びましょう。ね。さア。もウ泣くものではありません、さア泣き止《や》んで」
ああ何として泣かれよう,自分の耳には娘のいう一言一言が、小草《おぐさ》の上を柔らかに撫でて往く春風のごとく、聞ゆるものを,その優しい姿が前に坐ッて、その美しい目が自分を見て、そして自分を慰めているものを,ああ何として泣かれよう。五分も過《た》たぬ内、自分はもウ客座敷で、姉や娘と一しょになッて笑い興じて遊んでいた。
翌日の晩方自分は父ともろともに、叔父と娘とを舟へ乗り込むまで見送ッたが,別れの際《きわ》に娘は自分に細々《こまごま》と告別《いとまごい》をして再会を約した。自分は父と並んで岸辺に立ッて、二人が船へ乗り込むのを見ていたが、その時の心持はどんなであッたろう,親兄弟にでも別れるように思ッた,そしてその別れる人の心は何人《なんぴと》のことを思ッているのかと思うと、なお悲しさも深かッた。娘が桟橋《さんばし》を渡ッて、いよいよ船へ乗り込もうとして、こちらをふり向いて,
「叔父様、御機嫌よろしゅう。さようなら秀さん」
ト言ッた声、名残りに残したその声がまだ四方に消えぬ内、姿は船の中へ隠れてしまッた。
無情の船頭、船のもやいを解いて棹《さお》を岸の石に突き立てる、船は岸を離れる、もウこれが別れ。父も悄然として次第に遠くなる船を見つめている様子……すると船の窓から貌を出した、誰であろうか、こちらを眺めている、娘ではないか。情を知らぬ夕霧め、川面《かわつら》一面に立て込めてその人の姿をよく見せない,あれが貌かというほどに、ただぼんやりと白いものが、ほんのかすかに見えるばかり。ああそれさえ瞬《またた》きをする間,娘の姿も、娘の影も、それを乗せて往く大きな船も櫓拍子《ろびょうし》のするたびに狭霧《さぎり》の中に蔽《おお》われてしまう,ああ船は遠ざかるか、櫓の音ももウ消え消え,もウ影も形も……櫓の音も聞えない,目に入るものは利根川《とねがわ》の水がただ洋々と流れるばかり……
* * *
娘は江戸へ帰ッてから、ほどなく古河《こが》へ嫁入りしたが、間もなく身重になり、その翌年の秋|虫気《むしけ》づいて、玉のような男子を産み落したが、無残や、産後の日だちが悪く、十九歳を一期として、自分に向ッて別れる時に再会を約したその言葉を、意味もないものにしてしまッた。しかしかつて娘が折ッてくれた鶴、香箱、三方の類《たぐい》はいまだに遺身《かたみ》として秘蔵している。
ああ皆さん、自分は老年の今日までもその美しい容貌《かおかたち》、その優美な清《すず》しい目、その光沢《つや》のある緑の鬢《びんずら》、なかんずくおとなしやかな、奥ゆかしい、そのたおやかな花の姿を、ありありと心に覚えている……が……悲しいかな、その月と眺められ、花も及ばずと眺められた、その人は今いずこにあるか。そのなつかしい名を刻んだ苔蒸《こけむ》す石は依然として、寂寞《せきばく》たるところに立ッているが、その下に眠《ねぶ》るかの人の声は、またこの世では聞かれない,しかしかくいう白頭の翁《おきな》が同じく石の下に眠るのも、ああもウ間のないことであろう。まことに人間の一生は春の花、秋の楓葉《もみじ》、朝露《ちょうろ》、夕電《せきでん》、古人すでにいッたが、今になッてますますさとる。初めて人をなつかしいと思ッた、その蕾《つぼみ》のころはもちろん、ようよう成人して、男になッて、初めて世の中へ出た時分は、さてさて無心なもの気楽なもの、見るもの聞く物皆頼もしい,腕はうなる、肉はふるえる、英気|勃々《ぼつぼつ》としてわれながら禁ずることが出来ない,どこへどうこの気力を試そうか、どうして勇気を漏らそうかと、腕をさすッて、放歌する、高吟する、眼中に恐ろしいものもない、出来なさそうな物もない、何か事あれかし、腕を見せようと、若い時が千万年も続くように思ッて、これもする、あれもしたいと、行末の注文が山のようであッたが,ああその若い時というは、実に、夏の夜の夢も同然。光陰矢のごとく空しく過ぎ、秋風|淅々《せきせき》として落葉の時節となり、半死の老翁となッた今日、はるかに昔日を思い出《いだ》せば、恥ずべきこと、悲しむべきこと、ほとんど数うるに暇《いとま》がない。ああ少年の時に期望したことの中で、まア何を一ツしでかしたか,少壮のころにさえ何一ツ成し遂げなかッた者が、今老いの坂に杖突く身となッて、はたして何事が出来ようぞ,もはや無益《だめ》だ。もはや光沢《つや》も消え、色も衰え、ただ風を待つ凋《しお》れた花,その風が吹く時は……
底本:「日本の文学 77 名作集(一)」中央公論社
1970(昭和45)年7月5日初版発行
初出:「都の花」
1889(明治22)年1月
※白抜きの読点をコンマ「,」で代用しました。
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2006年6月27日作成
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