》していて。赤いのはなぜおきらい?」
「なぜッて? 赤いなア平家の旗色で、白いなア源氏ですもの,源氏の方が強いから、だから……」
愚にも附かぬことを言いながら、内庭と外庭の間の枝折戸《しおりど》の辺まで近づいた。と見ると花壇に五六本の白牡丹《はくぼたん》が今を盛りと咲いていた,その花の下に飼猫の「コロ」が朝日を一杯背中に受けて、つくねんとうずくまッていた「日向《ひなた》ぼこりをしているのか、居睡りをしているのか?「牡丹花下の睡猫《すいみょう》は心|舞蝶《ぶちょう》にあり」という油断のならぬ猫の空睡《そらね》,ここへ花の露を慕ッて翩々《へんぺん》と蝶が飛んで来たが、やがて翼《はがい》を花に休めて、露に心を奪われて余念もない様子であッた。油断を見すました大敵、しかし憎げのないひょうきん者め、前足を縮めて身構えをしたが、そら、飛びかかッた,蝶は飛び退いたが、あわてて、狼狽《まごつい》て、地下《じびた》をひらひらと飛び廻わッていた,が、あわや「コロ」の爪にかかりそうになッた。
「あらまア! あんないたずらを」と娘は走《は》せよッて、
「およし可哀そうに」
娘はしなやかに身を屈《かが》めて、「コロ」を押えながら蝶を逃がした。それから「コロ」を抱きあげてそしてやさしい手でくるくると「コロ」の頭《かしら》を撫でまわした,「コロ」は叱られたと思ッたか、目を閉じ、身を縮め、首をすぼめて小さくなッたその風の可愛らしさ,娘はその身の貌《かお》を「コロ」の貌から二三寸離して、しけしけと見ていたが、その清《すず》しい目の中にはどんなに優しい情が籠《こも》ッていたろう。「もう虫なんかを捕るのではないよ」と言ッて、その美しい薔薇色《ばらいろ》の頬《ほお》を猫の額へ押し当て、真珠のような美しい歯を現わしてゆッたりと微笑《わら》ッたが、そのにっこりした風はどんなにあどけなく、どんなに可愛らしい風であッたろう! 自分は猫を羨《うらや》ましく思ッて余念なく見とれていた。娘は頬の辺にまだ微笑《わらい》のほのめいている貌をちょいとふり上げて自分の貌を見たが、その笑い貌の中には、「なぜそんなに人の貌を見て」と尋ねるような風があッたので、あるいはなかッたかも知れぬが、自分はあッたように思ッたので、はッと貌を赤らめて、あわてて裏庭へ逃げ出してしまッた,が恥かしいような、嬉しいような、妙な感情《かんじ》が心に起ッて何となく胸が騒がれた。
その日の七ツ下りに自分は馬の稽古から帰ッて来て、またいつものように娘のいる座敷へ往ッて見ようと思ッたが、はてまア不思議! 恥かしいような怖いような気がして、往きたくもあるが往きたくもなく、どうしたものかと迷い出して、男らしくないと癇癪《かんしゃく》を起して、そこで往くまいと決心して誓いまで立てたが,さて人情は妙なもので、とんと誰か来て引っ張るようで、自然と自分の体が動き出して、知らぬ間に娘のいる座敷の前まで来た。唐紙《からかみ》は開いていた,自分は座敷の方を向きもしなかッたが、それでいて、もウ娘が自分を見たなと知ッていたので,わざと用ありそうに早足で前を通り過ぎ、そのくせ隣座敷の縁側で立ち止まッて、柱へつかまッて庭を見ていた。すると娘のいる座敷で誰か立ち上るような音がしたが、すぐその音が近づいて来た、自分の胸はときめいた,注意はもウその音一ツに集まッてしまッて心は目の前にその人の像《かたち》を描いていた,その人の像はありありと目の前に見えるのに、その人は自分の背《うしろ》へ立ッて、いたずらな、自分の頸毛《ちりげ》を引ッ張ッて,
「秀さん、いい物をあげるからいらッしゃい」
「いい物?」いい物とは嬉しい、と思いながら、嬉しさにほとんど夢中となり、後に続いて座敷へはいると紙へくるんだ物をくれた,開けて見るとあたり前の菓子が嬉しい人から貰《もら》ッた物、馬鹿なことさ、何となく尊く思われた,破《こわ》さないように、丁寧に、そっと撫でるように紙へくるんで袂《たもと》へしまうのを、娘はじッと見ていたがにッこりして,
「秀さんいい物を拵《こし》らえて上げましょう」
「どうぞ」
娘は幾枚となく半紙をとり出して、
「そらようございますか、これが何になるとお思いなさる,これがね」ゆッたりした調子で話し始めた。「――これは、そらね、これをこう折ッて、ここをこうすると、そうら、一つの鶴《つる》が出来ますよ、そら今出来ますよ、そうら出来た」
娘は鶴を折るとそれから舟、香箱、菊皿《きくざら》、三方《さんぼう》などを折ッてくれた。自分は娘が下を向いて折物に気を取られている間、その雪のような白い頸《えり》、その艶々《つやつや》とした緑の黒髪、その細い、愛らしい、奇麗な指、その美しい花のような姿に見とれて、その袖のうつり香に撲《う》たれて、何もかも忘れてしまい、ただもウうッとりとして、嬉しさの余り手を叩《たた》きたいほどであッた。
「お姉さま、折方を教えて下さいな」
それから自分は折方を習ッて、二三度試して見たが出来なかッたので、娘は「ほんとうにこの子は不器用な人だ」と笑いながら、いやというほど自分の手を打ッた,痛かッた、痛さが手の筋へ染《し》み渡ッた,が痛さと一しょに嬉しさも身に染み渡ッた,嬉しいから痛いのか、痛いから嬉しいのか? 恐らく痛いから嬉しいので……まアどうでもいいとして、痛さが消えぬように打たれたところをそっと撫でた。
ここへ姉がはいッて来て、
「秀さん何をしておいでだ」
娘はにっこりして姉に向い、
「どうもこの子は不器用でいけません」
「こんなものは出来なくッてもいいや」
「出来なくッてよければ、なぜ教えてくれと言いました? わがままッ子め!」
娘は口元で笑いながら額越しに睨《にら》む真似をした,自分はわがまま子と言われるのよりは、何とかほかの名を附けてもらいたかッた。
その夜のことで、まだ暮れてから間もないころ自分は何の気もなしに、祖母の室へ遊びに往ッた、すると祖母を始めとして両親もおれば叔父も娘もいて何か話していたが,自分を見ると父が眉に皺《しわ》を寄せて,「あちらへ往ッておいで。子供の聞くような話ではない」ときっとして言ッた,が自分はこの場の様子を怪しんで、物珍らしい心から出るのを少し躊躇《ちゅうちょ》していると,娘が貌をふり上げて清《すず》しい目で自分を見た、その目の中には、「早く出て往ッて……」というような風があッた。ちょっと見た娘の一目は儼然《げんぜん》として言われた父の厳命より剛勢だ、自分は娘の意に従いすぐに室を出たが、それでも今室へはいッた時ちらりと皆《みんな》の風が目に止ッた。父は叔父に向ッて、「さようさ、若年にしてはなかなか感心な人で」などと話していた,また娘は下を向いて膝《ひざ》を撫でていると、祖母と母とが左右からその貌を覗《のぞ》き込んで、何をか小声でたずねていた。自分は室を出てから、何を皆は話しているのか、なぜまた自分がいてはわるいのか? と思ッたが、なアに、思い込んだのではない、ほんの目の前を横ぎる煙草の煙《けぶり》、瞬《めばた》きを一ツしたらすぐ消えてしまッた。
元来この日は、自分は何となく嬉しくいそいそとしていた、しかし何ゆえ嬉しかッたのかその理は知らなかッた、が何がなしに嬉しかッたので臥床《ふしど》へはいッてからも何となく眠《ね》るのが厭《いや》で、何となく待たるるものがあるような気がするので、そのくせその待たるるものはと質《ただ》されるとなに、何もないので、何もないと知ッているが、そこが妙なわけで,夢現《ゆめうつつ》の間でたしかあるように思ッているので、どうも臥《ね》るのが厭であッた,それゆえ床の上に坐ッていると、そら、娘の姿がちらちら目の前に現われて来た。にっこりと笑いながら自分の手を打ッた時の貌、その目元、口元で笑いながら額越しに睨んだ貌、そのりきんだ目つき、まア何よりもその美しい姿容《すがたかたち》が目の前にちらちらし始めた。自分は思い出し笑いをしながら、息も静かにして、その姿が逃げて往かぬようと、荒く身動きもせず、そろそろ夜具の中へもぐり込んで、昼間打たれた手のところをそっと頬の下へ当てがッて、そのまま横になッたが,いつ眠ッたかそれも知らず心地《こころもち》よく眠入《ねい》ッてしまッた。
自分はこの時からというものは娘の貌を見ている間、その声を聞いている間、誠に嬉しくまた楽しく、ついうからうからと夢の間に時を過していた。こうはいうものの娘がいないとて、夢いささかふさぐなぞということはなかッた。何を言ッても自分はまだ十四の少年,自分と娘とは年がどれほど違ッていて、娘は自分より幾歳《いくつ》の姉で、自分は娘の前では小児であるということ,また娘はただ一時の逗留客《とうりゅうきゃく》で日ならずこの土地を去る人ということ,自分は娘を愛しているのか、はたまた娘は自分を愛していないのかということ,すべてこれらのことは露ほども考えず、ただ現在の喜びに気を取られて、それを楽しいことに思ッていた,がその喜びは煙のごとく、霧のごとく、霞《かすみ》のごとくに思われたので、どうかすると悲しくなッて来て、時々泣き出したこともあッたが,なに、それだとて暫時《ざんじ》の間で、すぐまた飛んだり躍《は》ねたりして、夜も相変らずよく眠《ねぶ》ッた。
叔父はわずかに一週《ひとめぐ》りの休暇を賜わッて来たので、一週りの時日はほんの夢の間のようであッた。もウ明日一日となッて、自分は娘にも別かれなければならぬかと、何となく名残り惜しく思ッたが、幸い叔父が三日の追願《おいねが》いをしたので、なお二三日はこちらに滞留していることとなッた。しかるにその夜のことで母と祖母との間に誠に嬉しい話が始まッた,それを何かというとこうで,もウ二三日過ぎると叔父も江戸へ帰るにより、何か江戸|土産《みやげ》になりそうな、珍らしい面白い遊戯《あそび》を娘にさせて帰したい,が何がよかろうと二人が相談を始めた。しかし面白い遊びといッたところがこの草深い田舎では,五節句、七夕《たなばた》、天皇祭でなくば茸狩《たけが》り蕨採《わらびと》り、まアこんなもので,それを除いては別段これぞという遊びもない,けれども今は四月二十日、節句でもなければ祭でもない、遊戯と言ッては蕨採りのみだ、蕨採りと言ッたところがさのみ面白い遊戯でもない,が摺鉢《すりばち》のような小天地で育ッている見聞きの狭い田舎の小児《こども》には、それが大した遊戯なので,また江戸のような繁華な都に住んでいて野山を珍らしく思う人にはやはり面白い遊戯なので,それゆえいよいよ蕨採りに往くことと極まり、そのことを知らせた時には一同|歓喜《よろこび》の声を上げた。
さてその夜は明日を楽しみにおのおの臥床《ねどこ》にはいッたが、夏の始めとて夜の短さ、間もなく東が白んで夜が明けた。
その日の四ツごろようように仕度《したく》が出来て、城下を去ること半里《はんみち》ばかりの長井戸の森をさして出かけた,同勢は母と、姉と、娘と、自分と、女中二人に下部《しもべ》一人、都合七人であッたところへ、例の勘左衛門が来合わせて、私もお伴をと加わッたので,合わせて八人となり、賑《にぎ》やかになッて出かけた。
家敷《やしき》の? 郭《くるわ》を出て城下の町を離れると、俗に千間土堤《せんげんどて》という堤へ出たが,この堤は夏|刀根川《とねがわ》の水が溢《あふ》れ出る時、それをくい止めて万頃《ばんけい》の田圃《たはた》の防ぎとなり、幾千軒の農家の命と頼む堤であるから、随分大きなものである,堤の上ばかりでも広いところはその幅十間からある、上から下へ下りるには一町余も歩かねば平地にはならぬ、まア随分大きな堤だ。堤の両側は平《ひら》一面の草原で、その草の青々とした間からすみれ、蒲公英《たんぽぽ》、蓮華草《れんげそう》などの花が春風にほらほら首をふッていると、それを面白がッてだか、蝶が翩々《へんぺん》と飛んでいる。右手はただもウ田畑ばかり,こッちの方には小豆《ささげ》の葉の青い間から白い花が、ちらちら人を招いていると,あちらには麦畑の蒼海
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