初恋
矢崎嵯峨の舎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)頭《かしら》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)梅干|老爺《おやじ》
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 ああ思い出せばもウ五十年の昔となッた。見なさる通り今こそ頭《かしら》に雪を戴《いただ》き、額にこのような波を寄せ、貌《かお》の光沢《つや》も失《う》せ、肉も落ち、力も抜け、声もしわがれた梅干|老爺《おやじ》であるが,これでも一度は若い時もあッたので、人生行路の蹈始《ふみはじ》め若盛りの時分にはいろいろ面白いこともあッたので,その中で初めて慕わしいと思う人の出来たのは、そうさ、ちょうど十四の春であッたが、あれが多分初恋とでもいうのであろうか、まアそのことを話すとしよう。
 ちょうど時は四月の半ば,ある夜母が自分と姉に向ッて言うには,今度|清水《しみず》の叔父様《おじさま》がお雪さんを連れて宅《うち》へ泊りにいらッしゃるが,お雪さんは江戸育ちで、ここらあたりの田舎者《いなかもの》とは違い、起居《たちい》もしとやかで、挨拶《あいさつ》も沈着《おちつ》いた様子のよい子だから、そなたたちも無作法なことをして不束者《ふつつかもの》、田舎者と笑われぬようによく気をつけるがよいと言われた。それからまたそのお雪という娘がどんなに心立てがやさしく、気立てがすなおで、どんなに姿が風流《みやび》で眉目容《みめかたち》が美しかろうと賞《ほ》めちぎッて話された。幼少のうちは何事も物珍らしく思われるが、ことに草深い田舎に住んでいると、見る物も聞く物も少ないゆえちょっとしたことも大層面白く思われるもので,母があのように賞めちぎる娘、たおやかな江戸の人、その人と話をする時には言葉使いに気をつけねばならぬという、その大した江戸の人はまアどんな人なのであろうか? 早く遇《あ》いたいもの、見たいもの、定めし面白い話もあろう、と自分の小さな胸の中にまず物珍らしい心が起ッて、毎日このことをのみ姉と言いかわして、珍客の来る日を待ッていた。そのうちにいよいよ前の日となると数ならぬ下女はしたまでが、「江戸のお客さま、お客さま」と何となく浮き立ッていた,まして祖母や姉なぞは、まして自分は一日を千秋と思ッていた。
 当日は自分は手習いが済むと八ツ半から鎗《やり》の稽古《けいこ》に往《い》ッたが、妙なもので、気も魂も弓には入らずただ心の中で,「もウ来たろうか?」と繰り返していた。稽古が済むと、脱兎《だっと》何のそのという勢いでいきなり稽古場を飛び出したが、途中で父の組下の烏山《からすやま》勘左衛門に出遇ッた。
 勘左衛門は至ッてひょうきんな男ゆえ、自分ははなはだ好きであッて、いつも途中などで出遇う時にはいい同行者《みちづれ》だと喜んで、冗談を言いながら一しょに歩くのが常であッた。今日も勘左衛門は自分を見るといつもの伝で,「お坊様今お帰りですか?」とにっこりしたが、自分は「うむ」と言ッたばかり、ふり向きもせず突ッこくるように通り抜けたが,勘左衛門はびっくりして口を開《あ》いて、自分の背《うしろ》を見送ッていたかと思うと、今でもその貌《かお》が見えるようで。
 自分は中の口から奥へはいッてあたりの様子に気をつけて見たが客来の様子はまだなかッた,さてはまだなのかと稽古着のままで姉の室《へや》へ往ッて、どうしたのだろうと噂《うわさ》をしていた。しばらくするとばたばたばたという足音がして部屋の外から下女の声で、
「お嬢さま、お嬢さま! お客さまが、江戸の」
 自分はいきなり飛び出そうとした,「静かに!」姉に言われてそうだッけと、静かに玄関の方へ往ッてそしてお雪という娘を見た。
 この時娘は、叔父の後《あと》に続いて伴《とも》の女中をつれてしとやかに玄関を上ッて来た娘は、なるほど、母の賞めた通り誠に美しい娘だ,背《せい》はすらりと高く、色はくッきりと白く、目はぱッちりと清《すず》しく、ほんとうの美人だ。黛《まゆずみ》を施し、紅粉を用い、盛んに粧《よそお》いを凝らして後、始めて美人と見られるのはそれはほんとうの美人ではない、飾らず装わず天真のままで、それで美しいのが真の美人だ。この時の娘の身装《みなり》は旅姿のままで、清楚《さッぱり》とした装《なり》で飾りけの気もなかッたが、天然の麗質はあたりを払ッて自然と人を照すばかりであった。それにどんなに容貌《かおかたち》が美しくても、気象が無下に卑しい時は、どうも風采《ふうさい》のないものであるが、娘は見るからがその風采の中に温良貞淑の風を存していて、どことなく気高く、いかなる高貴の姫君というとも恥かしからぬ風であッた。
 それに田舎者はどれほど容貌が美しくても、どれほど身装が立派であッても、かの一種言いがたき意気というか、しなやかというか、風流というか? かの一種たおやかな風を欠くものであるが、娘はその風をも備えていた。清水の叔父は自分の父の弟で、祖母には第二番目の子だ、それゆえ娘は自分と同じように祖母の孫で、しかも最愛の孫であッたそうな。その夜一同客座敷へ集まッて四方山《よもやま》の話を始めたが、いずれも肉身《しんみ》の寄合いであるから誰に遠慮ということもなくその話と言ッては藩中のありさま、江戸の話、親類知己の身の上話、またはてんでんの小児《こども》の噂などで、さのみ面白い話でもないが、しかしその中には肉身《しんみ》の情と骨肉《ちすじ》の愛とが現われていて、歎息《たんそく》することもあれば、口を開いて大笑いをすることもあッて近ごろ珍らしい楽しみであッた。祖母はお雪やここへというような風に、目つきで娘を傍《そば》へ招いて、いろいろなことを尋ねたり語ッたりしていたが,その声の中には最愛《いとおし》可愛《かあい》という意味の声が絶えず響いていたように思われた,そして祖母は娘が少《ちい》さかッた時のように今もなお抱いたり、撫《な》でたり、さすッたりしたいという風で、始終娘の貌《かお》をにこにことさも楽しそうに見ていたが,娘も今は十八の立派な娘ゆえ、さすがにそうもなりかねたか、ただ肩に手を掛けて,「ほんに立派な娘におなりだの」と言ッたのみであッた。自分は祖母が自分を愛するようにこの娘を愛している様子、と自分が祖母を慕うように娘が祖母を慕ッている様子、とを見て何となく心嬉《こころうれ》しく思ッた。
 その翌日のことで自分は手習いから帰るや否や、「娘はどうしたかな?」と見ると姉の室で召し伴《つ》れて来た女中と姉と三人で何やら本を見ていたが、自分を見てにッこりしたので自分もその笑い貌に誘い出されて何ゆえともなくにっこりした。自分はこれから剣術の稽古があるから、すぐに稽古着を着て、稽古|袴《ばかま》をはいて、竹刀《しない》の先へ面小手《めんこて》を挾《はさ》んで、肩に担いで部屋を出たが,心で思ッた、この勇ましい姿、活溌《かっぱつ》といおうか雄壮といおうか、その活溌な雄壮な風と自分が稽古に精を出すのとを娘に見せてやろうと思ッた,それから武者修行に出る宮本|無三四《むさし》のことを思い出しながら、姉の部屋へはいッたが、この小さな無三四は狡猾《こうかつ》にも姉に向ッて、何食わぬ貌で,「叔父さんは?」と問《たず》ねた,姉は何とか対《こた》えていたが自分はそんなことは聞きもせず、見ぬふりで娘の方をちらりと見て、それなり室を出てしまうと後から笑い声が聞えた。自分の噂だなと嬉しく思ッたが、今さら考えると、なんのそうでもなかッたのであろう、晩方から親類、縁者、叔父の朋友《ほうゆう》、大勢集まッて来たが、中には女客もあッたゆえ母を始め娘も、姉も自分もその席に連なッた。そのうちに燭台《しょくだい》の花を飾ッて酒宴が始まると、客の求めで娘は筑紫琴《つくしごと》を調べたがどうして、なかなか糸竹の道にもすぐれたもので、その爪音《つまおと》の面白さ,自分は無論よくは分らなかッたが、調べが済むと並みいる人たちが口を極めて賞めそやした。娘は賞められて恥かしがり、この席に連なッているのをむしろ憂《つら》いことと思ッているらしく、話もせず、人から物を言いかけられると、言葉少なに答えをするばかり、始終下を向いていた,がその風はいかにも柔和でしとやかで、微塵《みじん》非難をする廉《かど》もなく、何となく奥ゆかしいので、自分は余念もなくその風に見とれていた。
 自分の父は武辺にも賢こくまた至ッて厳格な人で、夏冬ともに朝はお城の六ツの鐘がボーンと一ツ響くと、その二ツ目を聞かぬ間にもウ起き上ッて朝飯までは、兵書に眼《まなこ》をさらすという人であッた,それゆえ自分にも晏起《あさね》はさせず、常に武芸を励むようにと教訓された。
 自分はありがたいことには父のお蔭で弓馬|鎗剣《そうけん》はもちろん、武士の表道具という芸道は何一ツ稽古に往かぬものはなかッたが、その中で自分の最も好いたものはというと弓で,百歩を隔てて、柳葉《りゅうよう》を射たという養由基《ようゆうき》、また大炊殿《おおいでん》の夜合戦に兄の兜《かぶと》の星を射削ッて、敵軍の胆《きも》を冷やさせたという鎮西《ちんぜい》八郎の技倆《ぎりょう》、その技倆に達しようと、自分は毎日朝飯までは裏庭へ出て捲藁《まきわら》を射て励んでいた。
 今日も今日とて裏庭へ出て、目指す的と捲藁を狙《ねら》ッて矢数幾十本かを試したので、少し疲れを覚えて来たゆえ、しばし一息を入れていると冷や冷やとして心地《こころもち》よい朝風が汗ばんで来た貌や、体や、力の張ッて来た右の腕《かいな》へひやりひやりと当るのが実に心持のよいことであッた。誰でも飢えた時|渇《かわ》いた時には食物や水がうまいものであろうが、その時の朝風は実にその食物や水よりもはるかに心持よく、自分は気が清々《せいせい》として来た。自分は弓杖《ゆんづえ》を突いて……というのも凄《すさ》まじいがいわゆる弓杖を突いて、あたりに敵もいないのに、立木を敵と見廻してきっとして威張ッていた。突然二ツの影法師が自分の頭上を越えて目の前に現われた,自分はふり返ッて娘と姉とを見た。
 娘は足を止めて、感心に御精が出ますこと、と賞めそうな風でにっこりして清《すず》しい目を自分に注いでいた,自分は目礼をして、弓を投げ棄てて姉の傍へ往ッた。
「大層御精が出ますことねエ」はたして娘が賞めた。
「どうしてあなた。叱《しか》られてばかりいます、精を出しませんから」
 娘がせっかく賞めたものを、姉がよけいな口をさし入れた、自分は不平に思ッた,しかし姉はさすがに姉で、情のあッたもので、弟の賞められたのが嬉しかッたと見えて、にっこりして,「それでもあなた、出来ないくせに大変に好きで」というのを枕《まくら》に置いて自分を賞め始めた,前の言葉とは矛盾したが、そこが女の癖で、頓着《とんじゃく》はなかッた。自分が幾歳《いくつ》の時四書をあげて、幾歳の時五経をあげて、馬をよく乗ッて、剣術が好きで、鎗がどうで、弓がこうでと、姉が自分のことを賞めたてるのを、娘は笑いながら自分の方を見つめて、その話を聴いていたが、聴き終ッてから、
「ほんとうに感心ですねエ、お少《ちい》さいのに」
 この一言は心から出たので,自分は賞められて嬉しく思ッた,的の黒星を射抜いて、えらいと人に賞められたよりは、この人に賞められたのを嬉しいと思ッた。
「庭の方へ往ッて見ましょう。秀さんもおいで」
 姉と娘との間に立ッて、自分は外庭の方へ廻ッて往ッたが、見つけた、向うの垣根《かきね》の下に露を含んで、さも美しく、旭光《あさひ》に映じて咲いていた卯《う》の花を見つけた。
「お姉さま、お姉さま、江戸のお姉さま! 御覧なさい。この花はね私が植えたのですぜ,植えたてには枯れかかッたけれど、やッと骨折ッて育てたのです。奇麗でしょう?」
「おやまア奇麗! 花もお好きなの? 武芸もお好き?」と言ッて白い手を軽く自分の肩へ掛けて、ちょっと揺すッてそして頭を撫でたが、不思議にも、その手が触《さわ》ると自分の胸はさわぎ出した、がそれを見られまいと急いで、
「花は白い方が奇麗ですねエ、赤ッぽいのよりか」
「そうですね、淡白《あッさり
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