遠ざかるか、櫓の音ももウ消え消え,もウ影も形も……櫓の音も聞えない,目に入るものは利根川《とねがわ》の水がただ洋々と流れるばかり……

     *    *    *

 娘は江戸へ帰ッてから、ほどなく古河《こが》へ嫁入りしたが、間もなく身重になり、その翌年の秋|虫気《むしけ》づいて、玉のような男子を産み落したが、無残や、産後の日だちが悪く、十九歳を一期として、自分に向ッて別れる時に再会を約したその言葉を、意味もないものにしてしまッた。しかしかつて娘が折ッてくれた鶴、香箱、三方の類《たぐい》はいまだに遺身《かたみ》として秘蔵している。
 ああ皆さん、自分は老年の今日までもその美しい容貌《かおかたち》、その優美な清《すず》しい目、その光沢《つや》のある緑の鬢《びんずら》、なかんずくおとなしやかな、奥ゆかしい、そのたおやかな花の姿を、ありありと心に覚えている……が……悲しいかな、その月と眺められ、花も及ばずと眺められた、その人は今いずこにあるか。そのなつかしい名を刻んだ苔蒸《こけむ》す石は依然として、寂寞《せきばく》たるところに立ッているが、その下に眠《ねぶ》るかの人の声は、またこの世で
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