てんで」に傍点]気がつかずにいたものらしく、道が曲っているのを真直《まっす》ぐに歩るいて来て、大手を振りながら落っこちてしまった。……
それから一人の警官は、わざわざ彼を窓のところまで引張って来て、下の方を指差しながら
「それ、その川だ。岸の石垣《いしがき》の高さがあれでも一丈もあるだろうよ、……梯子《はしご》を下すやら、それは騒いだよ。君の帽子がぷんぷらぷんぷら流れてゆくのを見て、それを君だなんて言うものがあったりして、その辺に君の姿がしばらくの間見えなくなってしまったんだからね。……でも、まあ、君の運がまだ尽きなかったのだね。……何しろ素敵に酔っていたんだから」
こんなことを言った。
曽根はそれらの話を一語も聞き洩《も》らすまいと熱心に聞いた。聞きながらもその場合場合の記憶を呼び起そうと一生懸命にあせっていた。しかし、覚えのない部分はあくまで覚えがなく朦朧《もうろう》としていた。それがまた彼を暗い憂鬱《ゆううつ》に陥らしめた。
下宿へ帰った時、玄関のあたりに主婦《おかみ》の姿が見えなかったので彼はほっと幽《かす》かな吐息をした。大急ぎで車屋に賃金を払い、車のけこみ[#「けこみ」に傍点]へ乗せて来た濡れた洋服の風呂敷包《ふろしきづつ》みを片手にぶら下げて、梯子段を走るようにして上った。
部屋は昨日の朝出た時のままに取り散らかっていていかにも不愛相に感ぜられた。新聞が障子のすき間から投《ほう》り込まれて、あたりに不行儀に散らばっていた。彼は、(あのちび[#「ちび」に傍点]の奴、いくら言ってもこうして行きやがる)こんなことをつぶやきながらそれを拾って机の上へ載せた。が、とてもそれを開いて見る気はなかった。手にさげて来た風呂敷包みを片隅に置いてしばしぼんやり立っていたが、取付き場がなく、味気《あじき》なくてしようがないので、押入れから布団《ふとん》を引きずり出してその中へもぐり込んだ。すると今まで外面へ張りつめていた気がゆるんだとでも言うのか、急にあるえたい[#「えたい」に傍点]のしれない烈《はげ》しい寂寞と哀愁とが大颶風《おおあらし》のように彼に迫って来た。熱い涙がつき走るように彼の目から流れ出た。彼はこらえることが出来ないで身を慄わして慟哭《どうこく》した。
何かしら自分というものが限りなく不憫《ふびん》でならなかったのだ。自分をかばっていてくれるものが、この広い広い世界に誰一人ないように思われて淋《さび》しかったのである。ほんとに自分の命だって自分がちょっとでも油断しようものなら、どんなことになってしまうかわからないように思われて怖《おそ》ろしく、そして哀れでならなかった。
口を塞がれるような、今にも窒息してしまいそうな苦しみの記憶が時々彼の頭に浮んで来た。目をつぶると、丸裸の身体にぼろ毛布をまきつけられて、警察の留置所に入れられて横たわっていた、ついさっきまでの自分のあさましい、みじめな姿がまざまざと見えてくる。小さくなって警官にいろいろ訊きただされていた、おどおどした自分を思い出すと、何だか羞《はず》かしいような、また何物かからひどく卑しめられてるような、そしてまた何物かに対して大変申しわけがないようなさまざまな思いが、じめじめした雨かなどのように彼の心に降りそそいで来た。涙がいつまでもとめどなく流れ出た。
お午《ひる》少し過ぎに、曽根の部屋へ宿の主婦《おかみ》が入って来た。主婦は忌々しそうに彼に言った。
「……あの、ご都合はいかがでございましょうか」
いつものおきまりのやつである。彼は別に言いようもないので、いつものとおり、
「どうも、今何にもないんです。どうぞ今少し待って下さい。そのうちにきっとどうかしますから」と言った。
主婦は(またか)といったような顔つきをしてしばし黙っていたが、
「わたしどもでも大変に困っているんですよ。……それに、はじめ月の五日にいくらか出して下さるはずでしたのにそれも駄目《だめ》、十日までにはこんどきっとということでしたのに、それもなん[#「なん」に傍点]なんでしょう。家でも都合があって払いの方へもそう言ってあるんです、……あんまりなん[#「なん」に傍点]すると家がみんな不信用になって商売が出来なくなってしまうんです。……是非何とかしていただかなければならないんですが、……」
と言って寝ている曽根の顔を覗くようにして見た。
いつもなら、曽根はこう言われればついそれにつり込まれてその気になり、本当に自分が大変に済まないように思い、出来ないのは知りつつも(両三日中にはきっとどうかしますから)といった工合に出るのだが、今日はそれを言う元気さえなかった。そしてかえってあべこべに心の中に余裕があるようであった。それに布団の中にいたので多少気が落ちついていたものと見えて、(まあ、主婦《おかみ》さんもこのごろは金の催促がうまくなったこと! それにしても、まだ年が若いのに、この人もほんとに気の毒な……)こんなことを心に思うて黙っていた。
主婦はまた続けた。
「私の申し上げようが手ぬるいと言っていつも私は良人《やど》に叱《しか》られるんですよ。かんしゃくを起こして酷《ひど》く私を殴《う》ちのめすんです。ほんとにやりきれやしない」それもみんなあなた方のせいだ。と言わぬばかりに言う。しかし彼は次のようなことを思うてやっぱり黙っていた。
(なあに、たかが五十円足らずの金じゃないか。いつまでやらないと言うのではなし、――よしまた全然それが払えないで終ったとしたところで、それが僕の全生涯《ぜんしょうがい》から観《み》て、どれほどの不善でもありやしない)
何と言っても彼が黙っているので、主婦は根敗けして、
「ほんとに困ってしまう、――それでは月末には是非とも間違いなくお願いしますよ」と言って思いきりわるそうに出て行った。
曽根は、今日は一日社も休み、「自分の生命」のために、そんな小さなことに煩わされずに、もっと偉《おおき》いことについて静かに瞑想《めいそう》しようと思うた。が、やはりそのことがうるさく気になって不愉快でならなかった。
灯《ひ》ともしごろになって、友の松本がひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]やって来た。また例によって少し酒気を帯びていた。事によったら、もう少し飲み足すつもりかなんかで、いくらか借りに来たのだったかも知れないが、悲槍《ひそう》な顔をして曽根が寝ているのを見ると、それどころではなく静かに近寄って、
「どうしたのだ、身体の工合でもわるいのか」と憂わしげにたずねた。
曽根は、病気で寝ているのでないことを言い、昨夜のことを告げ「生命の直覚」のいかに淋しいかを物語った。
あとで、松本は自分のはなしをはなした。
「とてもやりきれない。月給でも増してくれなければ、今度こそはいよいよ退社してしまう。なあに、いよいよ窮すればそこに必らずまた新らしい道が開けるにきまっている。――」
こう言った。彼の話によると、彼の勤めている社は実は大へんに可憐《かわい》そうなことになっているのだそうだ。社に一人悪い奴がいて、社主が地方へ出張している間に社の金を費《つか》いこむ、しておかねばならぬ仕事は手も付けずおまけに社主の妻君と姦通《かんつう》したとか、しないとか。松本もそんな地盤の上でいくら働いても働き甲斐もなければ、また働らく精もないというのだ。何やかや一切が気に入らないので毎日酒を飲んでごろごろしているので小使いがなくなり、なくなりしてこの月になって社へちょくちょく[#「ちょくちょく」に傍点]月給の前借りをやりだし、今じゃもう月末になっても貰《もら》う分が一文も残っていない、それに下宿の払いも二月ばかりたまっているし、そんなことも言った。
しかし、おしまいにはやがて昂然《こうぜん》とした調子で、「悲観することはないさ、やがて一切のことが皆どんどん経過してしまうのだ。いかなる苦悩も、いかなる困窮もいつかまた『時』とともに我々から過ぎ去り、消え去ってしまうのだ」こんなことを語り合うのだった。
翌朝、寝床を離れた時、曽根の頭は呆然《ぼんやり》していた。
蒸し暑い光と熱とを多量に含んだ初夏の風が、梅雨《つゆ》ばれの空を吹いていた。水気に富んだ低い雲がふわふわとちぎれては飛び、ちぎれては飛びしていた。地上にはそれにつれて大きな斑《まばら》をなして日陰と日の照るところとが鬼ごっこでもしているように走り動いていた。せかせかする気忙《きぜわ》しいような日であった。人の心も散漫と乱れて、落ちつかなかった。曽根は警察の留置所でくわれた南京虫《なんきんむし》のあとが、赤くはれ上り気持が悪くてしようがないので、社へ出る前にちょっと医者へ行って薬をつけてもらった。そして手だの首筋だの、外へ出て人目に触れる部分には繃帯《ほうたい》をしてもらったりした。
社へ行くと、下足番の爺《じい》さんが、彼の上草履《うわぞうり》を出しながらにやにや薄笑いして何か彼に言いそうにした。彼は何か言われないうちにと努めて不愛そうな顔つきをして急いで梯子段を上った。そこで外勤のF―何とかいった男に出会った。するとその男は、お互いについぞこれまで口を利《き》いたこともないのだが、
「おや、曽根さん、おめでとう」と言って彼の肩を叩いた。
「いや」と、あいまいな返辞をして、振り払うようにして編輯の部屋へ入って行った。
誰かぱちぱちと手を拍《たた》いたものがあった。すると、今までペンを走らしていた人たちまでそのペンを措《お》いて一斉《いっせい》に彼の方を見た。その人たちの顔が、いかにも、何か一口彼をからかって[#「からかって」に傍点]やらねばならぬと待ち構えていたかのように彼の目に映った。彼が席につくと、すぐ後ろにいた校正係りのT―老が朱筆をちょっと小耳に挾《はさ》んで曽根の方へ向き、
「昨日の市内版へ、もう少しで君の記事が載るところだったよ。すんでのことでさ」
「新聞配達夫水に溺《おぼ》るってね」
三面の主任がこうつけ足して笑った。
外務主任がやって来た。二面のL、一面のO、……いつか四五人の人が彼の周囲に集まっていた。そして(やはり一種の酒乱というものさ)(天才はどうしても常人とちがうね)(これからは少し謹《つつし》むこったね。実際笑談じゃないよ)こんな、てんでに勝手なことを言い合った。曽根はこれらの人たちの前で小さくなっている自分の姿を想像した。自分はなぜもっと群衆に対して威厳がないのかと思うた。黙って伏目になっていると、苦々しそうな薄笑いを浮べて気味の悪いほど不得要領な顔つきをしている自分の顔が鏡を見るようにはっきりと自分の目の前に見えた。眼尻《めじり》に集まる細い意気地《いくじ》のない皺《しわ》、小鼻のあたりに現われる過度の反抗的な表情、
一面のS文学士とMとがやって来て、「失われそうにして助かった幸運なる君が生命のために祝盃《しゅくはい》を挙《あ》げようじゃないか」と言った。すると、すぐ前の卓にいたAが頭を擡《もた》げて、
「賛成、賛成!」こう言って、書きかけの原稿を傍へ押しやった。
曽根は常になく片意地な、ちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]な心持であった。彼は心の中で思った。
(ご親切はかたじけないが、実を言うと僕は君たちと酒を飲むのはいつだってちっとも愉快じゃないのだ。何だか退屈でね、君たちの「新人」というものにももう新らしい型が出来ているよ。それに僕は君たちのような趣味に富んだ詩人ではないんだ。趣味なんてものにはむしろきわめて冷淡で、そして大変な不風流人だよ。それから君たちのような学者でもない、僕は事実この数年来書物らしい書物なんか一冊も読んだことがない。いつもよく君たちが言う最近の学説だの、新主張だのというものも僕にはただいたずらに退屈で、全く何の興味も持つことが出来ないのだ。……まったく、袖《そで》ふれ合うも多少の縁と思えばこそ笑談のつき合いもしているようなものの、恐らくは、そうだ、恐らくは僕は君たちが僕を遇していてくれるほど、君たちを尊敬してはいないかも知らないよ。そして僕は今、
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