た。もう、夜がすっかり明けていた。ふと見ると、自分のいるすぐ右手の壁の上に、爪《つめ》で書いたらしい「願放免」「五月二十三日」という字が読まれた。彼は心持ちが急に暗くなって来た。罪悪、罪人、本物の囚人、こんなことがいろいろに考えられた。五月二十三日といえば、ついまだ一カ月と前のことではない、これを書いた人はどんな人であったか、そしてその人は何のためにここへ入れて置かれたのだろう、そんなことまでがいろいろ気になった。
 入口のところへ一人の警官が来て、
「おい!」と彼を呼んだ。そして覗《のぞ》き込むようにして内を見た。彼が目を覚まして壁によりかかっているのを見ると、一段あらたまった調子で、
「貴様の名は何というのか」と問うた。
「曽根四郎と申します」と彼はおかしいほど丁寧に答えた。
 警官は、それから現住所、原籍、族籍、父の名、その者の第何男であるかまで詳しく聞いて一々それを手帳に控えた。最後に彼の職業が何であるかを尋ねた。彼は職業は何かと尋《と》われてはた[#「はた」に傍点]と当惑した。新聞の記者をしているのだから「新聞記者です」と言えば何の面倒もないのだが、彼はなぜかそう言うのが不正当のように考えられた。
「詩人です、いや、無職業です」と、こう言いたいのが山々であった。が、そんなことを言おうものなら、それこそどんな面倒が起きるかわからないと思うたので、ちょっと口ごもって「新聞へ出ています」と答えた。
 その言い方が不明瞭《ふめいりょう》だったので警官は敏活にこれを聞きとがめた。
「新聞だと? 配達夫か」
「新聞記者です」
 彼はこう言わなければならなかった。
 そこでその新聞社の名を訊《き》くと、もうあとは何も別に詳しいことを尋ねようともしなかった。小半時間ばかりして新聞社から着物を持って人が来たので、彼はその部屋から出されて応接室へ移された。そこでは給仕がお茶を持って来てくれたりした。湯気のたちのぼる熱いお茶をすすりながら、彼は初めてほっと大きな吐息をした。閑《ひま》な警官が二三人そこへ来て笑いながらいろいろと昨夜の話しをして聞かせた。それによると、何でもまだ十時をちょっと過ぎたばかりぐらいの時刻だったそうだ。落ちたというのはこの警察署のすぐわきを流れている溝川で、彼の落ち込むところを一人の警官がちょうど見ていたということだ。そこに川なんかのあるのにてんで[#「てんで」に傍点]気がつかずにいたものらしく、道が曲っているのを真直《まっす》ぐに歩るいて来て、大手を振りながら落っこちてしまった。……
 それから一人の警官は、わざわざ彼を窓のところまで引張って来て、下の方を指差しながら
「それ、その川だ。岸の石垣《いしがき》の高さがあれでも一丈もあるだろうよ、……梯子《はしご》を下すやら、それは騒いだよ。君の帽子がぷんぷらぷんぷら流れてゆくのを見て、それを君だなんて言うものがあったりして、その辺に君の姿がしばらくの間見えなくなってしまったんだからね。……でも、まあ、君の運がまだ尽きなかったのだね。……何しろ素敵に酔っていたんだから」
 こんなことを言った。
 曽根はそれらの話を一語も聞き洩《も》らすまいと熱心に聞いた。聞きながらもその場合場合の記憶を呼び起そうと一生懸命にあせっていた。しかし、覚えのない部分はあくまで覚えがなく朦朧《もうろう》としていた。それがまた彼を暗い憂鬱《ゆううつ》に陥らしめた。
 下宿へ帰った時、玄関のあたりに主婦《おかみ》の姿が見えなかったので彼はほっと幽《かす》かな吐息をした。大急ぎで車屋に賃金を払い、車のけこみ[#「けこみ」に傍点]へ乗せて来た濡れた洋服の風呂敷包《ふろしきづつ》みを片手にぶら下げて、梯子段を走るようにして上った。
 部屋は昨日の朝出た時のままに取り散らかっていていかにも不愛相に感ぜられた。新聞が障子のすき間から投《ほう》り込まれて、あたりに不行儀に散らばっていた。彼は、(あのちび[#「ちび」に傍点]の奴、いくら言ってもこうして行きやがる)こんなことをつぶやきながらそれを拾って机の上へ載せた。が、とてもそれを開いて見る気はなかった。手にさげて来た風呂敷包みを片隅に置いてしばしぼんやり立っていたが、取付き場がなく、味気《あじき》なくてしようがないので、押入れから布団《ふとん》を引きずり出してその中へもぐり込んだ。すると今まで外面へ張りつめていた気がゆるんだとでも言うのか、急にあるえたい[#「えたい」に傍点]のしれない烈《はげ》しい寂寞と哀愁とが大颶風《おおあらし》のように彼に迫って来た。熱い涙がつき走るように彼の目から流れ出た。彼はこらえることが出来ないで身を慄わして慟哭《どうこく》した。
 何かしら自分というものが限りなく不憫《ふびん》でならなかったのだ。自分をかばっていてくれるものが
前へ 次へ
全11ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 泰三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング