、この広い広い世界に誰一人ないように思われて淋《さび》しかったのである。ほんとに自分の命だって自分がちょっとでも油断しようものなら、どんなことになってしまうかわからないように思われて怖《おそ》ろしく、そして哀れでならなかった。
 口を塞がれるような、今にも窒息してしまいそうな苦しみの記憶が時々彼の頭に浮んで来た。目をつぶると、丸裸の身体にぼろ毛布をまきつけられて、警察の留置所に入れられて横たわっていた、ついさっきまでの自分のあさましい、みじめな姿がまざまざと見えてくる。小さくなって警官にいろいろ訊きただされていた、おどおどした自分を思い出すと、何だか羞《はず》かしいような、また何物かからひどく卑しめられてるような、そしてまた何物かに対して大変申しわけがないようなさまざまな思いが、じめじめした雨かなどのように彼の心に降りそそいで来た。涙がいつまでもとめどなく流れ出た。
 お午《ひる》少し過ぎに、曽根の部屋へ宿の主婦《おかみ》が入って来た。主婦は忌々しそうに彼に言った。
「……あの、ご都合はいかがでございましょうか」
 いつものおきまりのやつである。彼は別に言いようもないので、いつものとおり、
「どうも、今何にもないんです。どうぞ今少し待って下さい。そのうちにきっとどうかしますから」と言った。
 主婦は(またか)といったような顔つきをしてしばし黙っていたが、
「わたしどもでも大変に困っているんですよ。……それに、はじめ月の五日にいくらか出して下さるはずでしたのにそれも駄目《だめ》、十日までにはこんどきっとということでしたのに、それもなん[#「なん」に傍点]なんでしょう。家でも都合があって払いの方へもそう言ってあるんです、……あんまりなん[#「なん」に傍点]すると家がみんな不信用になって商売が出来なくなってしまうんです。……是非何とかしていただかなければならないんですが、……」
 と言って寝ている曽根の顔を覗くようにして見た。
 いつもなら、曽根はこう言われればついそれにつり込まれてその気になり、本当に自分が大変に済まないように思い、出来ないのは知りつつも(両三日中にはきっとどうかしますから)といった工合に出るのだが、今日はそれを言う元気さえなかった。そしてかえってあべこべに心の中に余裕があるようであった。それに布団の中にいたので多少気が落ちついていたものと見えて、(まあ、主婦《おかみ》さんもこのごろは金の催促がうまくなったこと! それにしても、まだ年が若いのに、この人もほんとに気の毒な……)こんなことを心に思うて黙っていた。
 主婦はまた続けた。
「私の申し上げようが手ぬるいと言っていつも私は良人《やど》に叱《しか》られるんですよ。かんしゃくを起こして酷《ひど》く私を殴《う》ちのめすんです。ほんとにやりきれやしない」それもみんなあなた方のせいだ。と言わぬばかりに言う。しかし彼は次のようなことを思うてやっぱり黙っていた。
(なあに、たかが五十円足らずの金じゃないか。いつまでやらないと言うのではなし、――よしまた全然それが払えないで終ったとしたところで、それが僕の全生涯《ぜんしょうがい》から観《み》て、どれほどの不善でもありやしない)
 何と言っても彼が黙っているので、主婦は根敗けして、
「ほんとに困ってしまう、――それでは月末には是非とも間違いなくお願いしますよ」と言って思いきりわるそうに出て行った。
 曽根は、今日は一日社も休み、「自分の生命」のために、そんな小さなことに煩わされずに、もっと偉《おおき》いことについて静かに瞑想《めいそう》しようと思うた。が、やはりそのことがうるさく気になって不愉快でならなかった。
 灯《ひ》ともしごろになって、友の松本がひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]やって来た。また例によって少し酒気を帯びていた。事によったら、もう少し飲み足すつもりかなんかで、いくらか借りに来たのだったかも知れないが、悲槍《ひそう》な顔をして曽根が寝ているのを見ると、それどころではなく静かに近寄って、
「どうしたのだ、身体の工合でもわるいのか」と憂わしげにたずねた。
 曽根は、病気で寝ているのでないことを言い、昨夜のことを告げ「生命の直覚」のいかに淋しいかを物語った。
 あとで、松本は自分のはなしをはなした。
「とてもやりきれない。月給でも増してくれなければ、今度こそはいよいよ退社してしまう。なあに、いよいよ窮すればそこに必らずまた新らしい道が開けるにきまっている。――」
 こう言った。彼の話によると、彼の勤めている社は実は大へんに可憐《かわい》そうなことになっているのだそうだ。社に一人悪い奴がいて、社主が地方へ出張している間に社の金を費《つか》いこむ、しておかねばならぬ仕事は手も付けずおまけに社主の妻君と姦通《かんつう》し
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