められてある。入口はその格子の一部分で、そこに鉄製の潜戸《くぐりど》があって、それには赤錆《あかさび》のした大きな鉄の錠が、いかにも厳《おごそ》かに、さもさも何か「重大事件」といったように重たく横たえられてある。天井の高さが不釣合いに高く、床のところが何かの底のように感ぜられる。
 薄い、あるかなきかの明るみが右手の方から格子を通して左手の壁の上に漂うていた。彼はそのおぼつかない未明の光を打ちながめながら、咋夜来の自分の身を思うた。
 いくら考えても考え直してみても記憶と記憶との間に一カ所大きな穴があって、そこのところがどうしても瞭然《はっきり》としない。それにしても川のあるところへなんかどうして行ったのだろう、川って一体何川なのだろう……
 彼はもう一度、初めから順序を追うて昨夜の記憶を頭の中にくり返してみた。
 日暮れごろから、木挽《こびき》町のさる料理屋の大広間で、社の懇親会があった。雨がびしょびしょ降っていた。庭の木立が白く煙《けむ》っていた。池の岸に白と紫の大輪の杜若《かきつばた》が艶《えん》に水々しく咲いていた。離れの小座敷の縁先に二十三四歳ぐらいの色白の粋《いき》な男が、しょんぼり立って、人でも待っているらしく庭をながめていた。池の水の面《おもて》には雨が描き出す小さな波紋が、音もなく夢のように数限りもなくちらちらと入り乱れていた。途《みち》で一緒になった丸顔の小造りの芸者が、下の方のよそのお座敷へ来ていた。……右隣りへは一面のS文学士が坐った。左隣りには三面の編輯《へんしゅう》にいるAという早稲田《わせだ》出の新進作家がいた。自分を社へ紹介してくれた人で、そんなに親しくはないが旧《ふる》くから知ってるので窮屈でなくてよかった。その次ぎが二面のT法学士に三面のY君、……このあたりは、社内の他の人たちから「新人」と呼ばれている一群で占領されていた。灯がつくと、芸者と雛妓《おしゃく》とがどやどや厭《いや》に品をつくって入って来た。彼らはいずれも(たかがへぼ[#「へぼ」に傍点]新聞記者が)といったような、お客を充分みくびった顔をしてよそよそしい世辞笑いをしながらお酌《しゃく》をして廻《まわ》った。ずらりとそこに居列《いなら》んだ面々も、(そんなことは万々承知だ)といったような、いかにも見透かしたようなふうをしてその酌を受けていた。そのうちにおきまりの三味線と唄《うた》と舞踊とが、何の感興もなく初まって何の感興もなく終った。それだのにそれが済むと、席は待ち構えていて拍手|喝采《かっさい》した。それらがすべて馬鹿馬鹿しく見えてならなかった。自分の膳《ぜん》の中にはいつも盃《さかずき》が二ツ三ツあった。お酌してくれる者があるままに自分はぐいぐいあおっていた。しかしその間にも自分の目、自分の耳は数限りもない小さな細々した不愉快と忌々しさとを見聞した。例えば俗悪なる階級的気分、高慢、追従《ついしょう》、暗闘、――それから事務員某の醜悪見るに堪えないかっぽれ踊[#「かっぽれ踊」に傍点]り、それから、そうだ、間もなく誰かと何かしきりに罵《ののし》り合ってあげくの果てが殴《なぐ》り合いとなり、皿《さら》類のこわれる音、……その争いがまたいろいろのこんたん[#「こんたん」に傍点]を含んでいるので、外務主任のKが社に不平を持っていて?ニしてそんな幕を演じさせたのだとか……自分はもう大分酔っていた。自分の前後左右が無性と愚劣に見え出して来た。馬鹿馬鹿しいのを通り越して一切がただもう面倒くさくてしようがなかった。その時ふと目をあげると、自分の前に一人の雛妓が――初子とかいう名だった。――両手を膝《ひざ》の上へきちんと重ねて坐っていた。自分はふらふらと立ち上ってその妓の背後から肩を両手で抱くようにして、嫌《いや》がるのを無理に頬辺へ接吻《せっぷん》してやった。……それから誰か二三人と隅《すみ》の方へ陣取って大いに飲んだ、その時、誰だかが、何のことだか、「……それは世界の大いなる皮肉で、それは何ものかに対しての大いなる攻撃であらねばならぬ」こんなことを叫んでいたのを覚えている。……そしてそれから、……
 どうしてもこの先がはっきりしない。
 部屋を二つほど隔てたと思われるあたりに時計が四時を報じた。どこか板敷きの床の上をコツコツと歩く靴《くつ》の音がして、やがて奥の方で、「△△君、○○君、交代!」という声がした。しばらくするとまた前と同じような靴の音がコツコツとして、そのあとはまた以前と同じような寂寞《せきばく》に帰った。
 今までつい気がつかずにいたが、家のすぐそとに何やらさらさらと水の流れる音がしている。耳を澄ますと、時々舟が通るのかひたひたという波の音も聞えてくる。
 彼は起き上って一方の壁に身を寄せて、今さらのようにつくづくあたりを見廻し
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