近くの料理屋に宴会でもあって、それへ招かれでもしたのか濃艶《のうえん》におめかしした芸者衆が幾人も幾人も自動車で運ばれて通っていた。
曽根は(誰だかうまくやってる奴があるな)と思った。どことかに、自分に隠れて、自分の目のとどかないところに、自分などの知らないことで、いいことがどっさり[#「どっさり」に傍点]あることと思うた。淋しいような、やきもき[#「やきもき」に傍点]とそそられるような気がした。するとついさっきまで、お伽噺の筋を一生懸命に考えていたことなどがあまりに意気地なく、あまりに馬鹿馬鹿しいような気がした。何という廻りくどいことだ、……いや、俺は一体|何歳《いくつ》だというのだ。二十六七と言えば、花ならば今が満開だ。まったく、満開がいつまでも続くものか、「青年は人生の美しき口絵!」こんなことを誰やらが言っている。「美しき口絵」そのとおり、そのとおり。……しかるに
(おい、曽根君、当年二十七歳の美男子、君のその縮こまり方と来たらどうだい。棒切れに突かれた蝸牛《かたつむり》みたいに恐ろしく引込み思案を初めたその君の心は、……お伽噺とはほんとに好い思いつきだよ。ふ、ふ、川へ落ちたぐらいが何だね、借金が何だね、憂《う》き世の波におじ気がつきましたかね。……おとなしいお子供さん、そのうちにどこかの小父さんが讃《ほ》めてくれるだろう。……)また例のやつが彼の腹の中で初まった。すると急に元気づいて来て、口を尖《とが》らし、口笛で何かでたらめのマーチをやり出したりした。しばらくすると彼は人通りのないような横町へちょっとそれて懐中から金入れをとり出し、その中をしらべてみた。
それから小半時間ばかりして、友の松本が彼らのよく行く銀座の××酒場《バア》へ入って行くと、そこの隅《すみ》っこの方に一人で淋しそうにウイスキーを飲んでいる曽根の姿を見出した。松本はちょうど誰かいい相棒をほしいところだったから酷くよろこんだ。そーッと曽根に気づかれないように彼の背後から両手で彼の目を塞《ふさ》いだ。
曽根は飛び上って喜んだ。握手を求めながら言った。
「何かうまいことでも見つかったかね」
「それどころではない、僕は社をやめてしまったよ」
「え? どうして?」
「あんまりけち[#「けち」に傍点]なことばかりで、退屈で退屈で我慢が出来なくなってしまった」
「それで、どうしようというのだ」
「どうと言って別に当てなんかあるものか。――まあ、二ッちも三ッちもならなくなるまではこうしているさ。その先はどうにかなる。口入れ屋へでも何でも出かけるんだ」
曽根は、何だか自分もやろう[#「やろう」に傍点]としていたことを先を越されたような気がした。そしてある感激を覚えた。彼は盃をあげて突然《いきなり》
「松本! 君の健康を祝す」と叫んだ。
酔いがまわるにつれて二人は快弁になった。二人とも相手になんかおかまいなしで、てんでん勝手なことをどなった。曽根はおどけた一種の節をつけて、
「……むかし男ありけり、詩人にてありけるが、いまだ一つの作詩をもなさざるにある日酒に酔いて川に落ち、そのままみまかりにけり。か、そのとおり、そのとおり。まるで一口噺だね。……二人は酒をくみかわし、酔うて別れた。そしてその後ついに相会う機会を持たなかった。数年の後、あるいは数十年の後、二人は別々な土地で、別々な死に方をしてあの世の人となってしまった……か。人生よ、げに一口噺のごとき人生よ。……」
こんなことを言っていた。
松本は松本で、そんなことには耳をかさず、まるで演説でもしているような口調で、
「……世の一切の得失が我々にとって何でありましょう。世の一切の美、一切の醜、一切の善、一切の悪、それが何でありましょう。……無職業、無一物、そして宿なし、まことに勇気ある者のみの営み得る最も勇敢なる生活だ。そこにのみ誠に清新なる生活が味わわれるのだ。……何を恐れ、何を憂えんやだ。いかなる苦悩も、いかなる困窮も、やがて次ぎの時間に我々から「経過」して消えて行ってしまう、そしていつも我々の生命と、我々の思想と、我々の身体とが残って存在しているのだ。これでたくさんだ。……何という幸福でありましょう。……」
こんなことを叫び続けていた。そして最後に彼は曽根の肩に両手を掛けて、曽根にも一日も早く社をやめるように勧めた。
「……先輩、後輩、関係、背景、そして紹介状、……むこうに行ってはすべり、こっちへ来ては転《ころ》び、……曰《いわ》く何系、曰く何団体、曰く何派、曰く何、……まるで簇生《そうせい》植物のようだ。うじょうじょとかたまっていなければ生きて行かれないような、そんな意気地のない権威のない生活が何になるのだ。……そういう世界から一日も早く卒業しなければだめだ」
それはまるで人を鞭打《むちう》つよ
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