うな調子であった。
二人がそこを出たのは、もう大分|遅《おそ》かった。街には全く人通りが絶えていた。空は高く晴れ、数限りもない星がチラチラと瞬《またた》き、ちょうど頭の上に十八九日ごろの月が、紙片《かみきれ》でも懸けたように不愛相に照っていた。二個の酔漢はよろよろと互いに相もたれ合うようにしてその下を当てもなくさまよい歩いた。
数日の後、曽根は松本から一通の封書を受け取った。信州軽井沢よりとしてある。それには次のようなことが書いてあった。
[#ここから1字下げ]
「昨日、飄然《ひょうぜん》この地へ来た。
僕がここへ来たことはむろん、宿の者にも誰にも知らせない。このまま再び東京へ帰えるまいかとも思うている。
真夜中ごろ浅間山が大爆発をやらかした。今もなお地に響いて盛んに轟々《ごうごう》と鳴っている。濛々《もうもう》たる黒煙の柱が天にもとどきそうだ。灰の雨が盛んに降っている。高原は一面に深い霧にとざされたように模糊《もこ》としている。そして太陽が、まるで焼いた銅のような怪しい赤黒色に鈍って見える。
軽井沢へ僕が来たと言えば、僕が言うまでもなく、君は(そうか)と頷《うなず》くだろう。全くその通りだ。僕はお今が見たいばかりでここ[#「ここ」に傍点]へやって来たのだ。
一昨夜、また一人で大泥酔をした。昨日、宿酔《ふつかよい》の頭をかかえながら下宿の窓からぼんやり青空を眺めていたら、どうした工合か空が常になく馬鹿に高く見えるのだ。見ていれば見ているほどどこまでも涯《はて》しがなく高く感ぜられる。隣りの寺の屋敷にある大きな、高い榎《えのき》の梢《こずえ》が、寂寞に堪えないといったような表情をして(実際、そんなに感ぜられた)軽くふわふわとそよいでいた。僕はわけもなく悲しくなって来た。何にも要《い》らないような気がして、そして無性と誰かに会いたくなって来た。誰かと会っていねば一刻もいられないような気がして来たのだ。するとその時ふと、お今が僕の心の中に浮んで来た。――あんなふうにして別れたのだから、お今はきっと自分を怨《うら》んでいるだろう。……事によったらお今はもうよそへお嫁に行ったかも知れない、などと思うたら、もう矢も楯《たて》もなくお今が恋しくなってたまらなくなった。……そして取るものも取りあえず、まるで夢の中でも走るようにここへやってきた。さっき宿の女中に尋ねたら、お今はどこへもお嫁に行かず、やはり達者で家で働いているそうだ。僕の心は今|歓《よろこ》びで波うっている。僕はこれから出かけて行く。どんなことをしてもお今をもう一度きっと僕のものにしなければならぬ。願わくば君も僕の成功を祈ってくれ。
屋外には灰の雨がますます盛んに、サラサラと幽《かす》かな音を立てて降りしきっている。太陽の色はますます鈍く曇って来た。……僕は、何だか嬉《うれ》しくてしようがない。僕は一生涯《いっしょうがい》この高原から下らないかもしれない。……」
[#ここで字下げ終わり]
日本紙へ書いたのに、万年筆のインキが少くなってでもいたのかところどころにポテリと大きなしみ[#「しみ」に傍点]が出来ていたりしてかなり読みにくかった。
そのころ、曽根の社では、(川へ落ちる)という言葉がはやっていた。人と人と議論でもしていると、そこへ行って(君たちの議論の行く手には溝川が流れているようだぜ、おっこちないように気をつけたまえ)とか、誰か新らしい計画でも初める者があると、(あの計画も行く行くは川に落ちてしまうね)とか、または、(あの人の行く道には常に一つの溝川が添うて流れている)とか、こんなふうに言うのである。そしてまた、誰が言い出したものか「生命直覚の悲哀」「南京虫の哀愁」とかいう言葉が、言外の意味を多量に含んでよく使われていた。
曽根は社へ行くのが怠儀でならなかった。社へ行っても誰ともあまり語り合わず、閑《ひま》さえあればぼんやり煙草《たばこ》をふかしながらあたりを眺めていた。ほかの人たちはいずれも常のごとく何の変りもなく機械のように働いていた。各人は各人の割り当てられた仕事をして、くるくると本当の機械のように立ち働いていた。社の中では彼一人だけが別者であった。彼自身もそれを感じて時々、(俺みたいな者がいてはみんなの邪魔になるわけだ)などと独《ひと》りで思うた。
頭痛がするので一日社を休んで下宿に寝ていた。するとその翌日も面倒くさくて届だけ出して社へ行かなかった。こんなふうにして二日続けて社を休んだら、その翌日もなおのこと社へ行くのが厭《いや》になった。仕度《したく》をして家を出ることは出たが、途中から外《そ》れてぶらぶらどこという当てもなく町中をさまよい歩いた。どこへ行っても、何を見ても、何を聞いてもすべての物が自分とは赤の他人のようでさっぱり親しみを感じなかった
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