をちっともあげてもらえないことや、窓のこわれたのなどをいつまでも修繕しないでおくことや、いろいろそんな話をしていたんですよ。そうすると、その中の一人が、一代の警句でも見つけ出したかのような得意な調子で、「収穫時に肥料をほどこす農夫もあるまいよ」だって。全くそのとおり、そのとおり。私もそれに大賛成です。……)
曽根はなお、次ぎから次ぎへとこんな風にして飽かず続けて行った。そしてその日は一行も書くことがなくて、五時少し過ぎると、夜の交代の来るのを待たずにSたちの連中につれられて社を出た。
曽根はそれから三四日自分の下宿に帰って行かなかった。今日も社が退《ひ》けて外へ出たが、どうしても下宿へ帰える気はしなかった。今ごろのっそり[#「のっそり」に傍点]と帰って行けば、何か面白くないことの二つや三つはきっと起っているに相違ない。第一番にあの主婦《おかみ》がやって来て長々と例のやつを催促する。それから約束しておいたのだから、昨日は洋服屋が残りの金をとりに来たに相違ない。あの洋服屋も可憐《かわい》そうな男だ、四十幾つになって、店はつぶれる、妻には先だたれる、身を寄せるところさえもなくなり、仕方なしに昔しの相弟子《あいでし》の店へ寝泊《ねとま》りまでさせてもらって仕事をしているのだ。苦労人だからああしてがみがみと言わないでいつも好い顔を見せているが、あれは是非何とかしてやろう。無理しても近いうちに持って行ってやらなければならぬ。だが、この俺はどうだ? また月末が思いやられる。何と法を講じたものか? と言って今さらどうなるものか、また辛《つら》い思いをしてもどこかへ泣きついて借金をするほかはない。だが、俺の知っている奴《やつ》に誰が金を持っている? 金を持っているような知己のところへは、どこもここも、義理を悪くしているから行くことが出来ない。……昨夜宿めてくれた長谷川《はせがわ》は、そんなに困っているならお伽噺《とぎばなし》でも書いたらどうか、少年雑誌の編輯《へんしゅう》をしている人を知っているからそれへ売りつけて上げることにしてもいい、と言ってくれた。そうか、まあ、これからそんなことでも少しずつ初めることかな。……こんなことを思いながらぶらぶら当てもなく銀座の通りへ出た。
お伽噺などと言ったところで、どんな風に書いて良いものか、それにこのごろの子供はどんなことを好くか、それからしてちょっと当りがつかない。しかしとにかく筋を一つ立てて見よう。彼はほんとにそれをやって見る気になっていろいろと真面目に考えた。考えてもなかなかおいそれ[#「おいそれ」に傍点]と面白そうなことが思い浮んで来ない。継児《ままこ》だの孤児だのを材料にしても今様に仕組んだ哀れな物語をよく活動写真などで見るが、そんなものは何ぼ何でも我慢が出来ない、それではやはり、ごく古いところで、「むかしむかしあるところにお爺さんとお媼《ばあ》さんとがありました」かな。これもあんまり白っぱくれていて感心出来ないが、まあそんなことにして初めるとしよう。
「爺さんは山へ薪かりに、媼さんは川へ洗濯《せんたく》に行きました。……媼さんがじゃぶじゃぶ洗濯をしていますと、川上の方から大きな桃が二つ、どんぶらこ、どんぶらこと流れて来ました。その時、媼さんは何と言ったっけな。(小さな桃あっち行け、大きな桃こっちへ来い)それ、それ。……媼さんに拾われた大きな方の桃は皆様ご存知の通り、その中から桃太郎さんが産まれ出て、のちにお腰に日本一の黍団子《きびだんご》をぶら下げて鬼ヶ島征伐に出かけるのですが、さて、あの時媼さんに拾われなかった、もう一つの小さい方の桃はその後どうなったでしょう。兄さんの桃太郎に別れて一人ぽっちになって、どんぶらこ、どんぶらことどこまで流されて行って、何者のために拾われて、どんな一生を送ったでしょう。……」
なかなかうまいぞ、と思わず手を拍《う》った。すると、その様子があんまり突飛でおかしかったものと見えて、擦《す》れちがった二人連れの紳士がくすくすと笑って行った。彼はそんなことには気もつかず、なおその先を一生懸命に考えていた。
新橋の先まで行って、ふと気がついて引き返えした。
もう、灯がぽつぽつつきだしていた。屋根上や、特にそのために造られた高い塔の上の広告燈が、(さあそろそろ初めましょうよ)とでも言うように二つ三つ、まだ暮れきらない薄明りの空に明るくなりまた暗くなりしていた。夕靄《ゆうもや》の白く立ちこめた街《まち》の上を、わけもなく初夏の夕を愛する若いハイカラ男やハイカラ女が雑踏にまじってあちらこちらへ歩るいている。流行のみなりをしていそいそと、まるで尾ひれを振ってあるく金魚かなどのようにしなしな[#「しなしな」に傍点]と品をつくッて歩るいている。裏通りの方ではまた、どこか
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