呑《ゆのみ》のひっくりかえったのや、……
しかし、いずれも(今初まったことでもない)といったように、誰一人としてそんなことを気にする者もない。
曽根はさらに社員の一人一人について眺めて行った。最初に彼の目にとまったのは、彼が自分だけで「尨毛《むくげ》の猟犬」と仇名《あだな》を与えている二面の主任のKさんであった。彼はすぐ腹の中で初めた。
(やあ、むくさん、むく毛の猟犬先生――いつも相変らずのおめかし[#「おめかし」に傍点]ですね。ぴかぴか光るそのお召物はそれは何という物でしょうかね。大へん粋な柄ですこと、……しかしそれにしても腰にぐるぐる巻き付けた水色|縮緬《ちりめん》の幅広なのは少々野暮に過ぎますね。そうさ、むろん安物ではありますまいとも、先生のことですもの。……えーと幾らかとおっしゃったっけね、その金時計とその黄金とプラチナとをつなぎ合わせたその鎖とは、たしか三百八十円でしたね。……そういう立派な、いや高価なものを身につけておいでになればそれはもうどこへ行っても、どう見誤っても中流以上の階級の人と見られるでしょうとも。いや、先生のおっしゃるまでもなく、おしゃれも単なる一種の義務……全く、そのとおり、その通り、……)彼は自分ながらおかしくなって来た。
社の誰やらが、(あれは、もと貧しい家の産で、近年まで長いことそういう方面にひどく不自由をして来たんだからさ)こんなことを言ったのを、ふと思い出した。二面の主任は、社としては今ではなくてはならぬ大事な人物の一人である。事実、このごろの社説の多くはこの人が一人で書いている。彼は別にこれという教育も受けなかった。その代りに長い月日の間めったやたらに書物を漁《あさ》り読んだ。初めから新聞の社説書きになることを心がけてとうとうそれに成功した人である。雄弁術というものによって真面目《まじめ》に演説の仕方も練習もした。なかなかの利口者で、常に自分の周囲に多様な青年、大学生の群を近づけておき、そしてそれとなくそれらの人たちから新思想、新空気を嗅《か》ぎ入れることを知っている。どうかすると彼の書く論文の中には、某々青年、某々大学生の意見がそのまま出て来るようなこともあった。曽根が「むく毛の猟犬」と仇名をつけたのもこの辺から思いついたことである。主筆は彼を、今の世に最もよく要領を得てる人の一人だといつもほめている。――
社長がぬーッと入って来た。(この社は隅から隅まで俺《おれ》の所有に属しているのだ)といったような、例えば、牧場主が自分の牧場を見舞う時のような得意さと、(俺のお蔭《かげ》で……いや、お前たちのうちどの男でもこの俺の意志一ツで追い出すこともどうすることも出来るのだ)といったような尊大さとが、湯気かなどのように朦朧《もうろう》と彼の身体から立ちのぼってるのが感ぜられた。
曽根はその方へ顔を向けた。その機《はずみ》に自分の眼がはからずも社長の鈍く冷たく光ってる眼とちら[#「ちら」に傍点]と途中で出会った。曽根はきたない物でも見たように顔をしかめた。しかし元気を出して、また腹の中で独言をはじめた。
(おや、社長さん、……馬鹿にご機嫌《きげん》が悪いようですね。……人の噂《うわさ》じゃ、このごろ大分金が溜《たま》ったというじゃありませんか。たまには、せめてにこにこした顔くらい見せたっていいじゃありませんか。その方が因果に良うございますよ。……そうだ、それでよろしい、そこに立つとちょうど全体が見渡されます、ご監督ですかな、……)
曽根は何だか愉快になって来た。そしてまた続けた。
(社長さん、ちょっと思い出したから尋《き》くが、君はもと浅草の何とかいう横町で油売りをしていたってね。――何もよけいなことには相違ないが、校正のT―老の話だからまんざら嘘でもあるまい。草鞋《わらじ》をはいて車を曳《ひ》いて行商をしてあるいたんだって、いや、全く見上げたものだ。T―老もその話をしていかにも羨《うらや》ましがっていましたよ。君のその非凡なる成功は誰だって感服のほかはないさ。あなたはこのごろお宅では、家内のものどもに「ご前様」てなことを言わせておいでだそうですね。それから靴なども一々小間使に命じておぬがせになるのだとか、それもやはりT―老が言っていましたよ。なかなか高尚《こうしょう》な趣味というものですね。いつごろからそんなことをお思いつきになりました? まったく豪勢ですよ。それにしても一体、君が新聞の株なんかどうして買うようになったのだね。しかし君のこの成功もこの新聞の株を手に入れてからだと言うからやはり先見の明があったというものだね。それにしても社長は少々恐れ入るね。全くさ。いや失敬、失敬、社長さん、あなたは近いうちにこの社を売り飛ばすって噂があるが、まったくですか。このあいだ五六人でね、月給
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