こうして君たちと一緒になってこんな仕事をしているが、いつ、いや明日にでも社を止《よ》すかも知れないんだ。僕には「芸術」という立派な職業があるのだから、本当を言えば僕がその上に新聞記者なんかしているのは全くお羞かしいような次第なのだ。僕はいつだって、一日も早くこんなことを止さねばならぬと思っていないことはないのだ。心にもないこんな片々たる仕事をして、まるで身を売るような卑しいことをして貴重なる生命を一時でも過ごすということはないのだ。――僕がこうして君たちと一緒になっていることが、僕自身にとってどれほど忍びがたい屈辱であるか)
 SとMとAと、それに二面のT法学士も加わって、四人はしきりにいろいろのカフエの名を並べて、あれかこれかと今晩の祝盃を挙げる席場の選定をしていた。
 曽根はまた独《ひと》りで腹の中で、(祝盃をあげるなら君たちだけであげてくれたまえ。僕は多分、身体の工合がよくないからはなはだすまないが……なんて嘘《うそ》をついて途中から逃げ出すかも知れないよ)こんなことを言っていた。
 第一版の締切時間が迫って来たので、いずれも自分の卓へ帰って行った。
 その日はちょうど、政治界のちょっとした名士が病死したのでその人の閲歴やら、逸話やらで、不時の記事が多くて割に忙しかった。それに二面の方では支那《しな》問題、バルカン問題、米国の排日問題やらで、電報、通信、電話などがしっきり[#「しっきり」に傍点]なしにやって来てごたごたしていた。
 編輯長の卓では、主筆、編輯長、一面主任、二面主任、H代議士などいう連中が明日の社説のことで互いに意見を述べ合っていた。
 原稿を工場へ持って行くボーイ、ゲラ刷を工場から持って来るボーイなどがパタパタと上草履を鳴らして小走りして出たり入ったりした。中にはまだ雇われたてのがあって何か間違ったことをして、ひどく叱り飛ばされているのなどもあった。彼のいるすぐわきのところに、車井戸のような仕掛けで受付から郵便物だの通信類だのと運び上げるものがあって、それが間断なくギーギーきしッていた。それにつれてそれを知らせる鈴が幽かに鳴っていた。そしてそれがこの編輯局全体に一種の調子をつけているようにも聞かれるのであった。
 編輯の卓は一面二面三面と順に長く三列にならべられてある。その奥に一段低くなって外務主任の大きな卓があり、それを起点にして二列に長く外歩きの記者たちの卓がずらりと規則正しく列べられてある。そのあたりには絶えず煙草《たばこ》の煙が朦々《もうもう》と立ちあがり、雑然とした話し声、何か急を報ずる叫び声、電話をかける間《ま》ののびた話し声、――それらに混じって誰がやっているものか朝から晩まで碁を囲む音がいかにものんきそうに、社の誰やらがよく言う「動中静あり」という言葉のようにパチリパチリと聞えている。
 曽根は幸いその日は割り当てられる仕事がなかったので、煙草をふかしながらあたりを眺《なが》めまわしていた。
(事によったらこの部屋も今日が見おさめになるかも知れない)こんな気がして今さらのようにつくづくとあたりを見た。壁、窓、カーテン、天井、天井からぶら下がっている幾つかの電燈、隅々の戸棚《とだな》、蓋《ふた》のしてある暖炉、大きな八角時計、晴雨計、寒暖計、掲示板、――壁にはところどころに何者の趣味だか、いや何の意味だか呉服店だのビール会社だのの広告絵、大相撲《おおずもう》の番附などが麗々しく貼《は》られてある。と思うと、万国地図、日本地図、東京地図などが不秩序にあちらに一ツこちらに一ツばらばらに懸《か》けられてある。また、何者の筆になったか判明しない怪しげな骨董絵《こっとうえ》の軸などもさがっている。中にはつい四五日前に新たに懸けたのもあれば、また十五年もそれよりも前からそこにぶら下げてあるようなのもあった。彼はそれらを一ツ残さず隅から順々に眺めて行った。しかし何一ツとして彼の心をひくものはなかった。それらのものからは何らの親しみも、何らのゆかしさも感ずることができなかった。
 次ぎに彼はその眼を、順よく向い合わされて並んでいる幾列かの卓に転じた。各列の一番むこうのはずれに各その面《めん》の主任がおり、それから主任助手、主任次席、以下△△係、△△係といった風にちゃんと各自その定められた席について各自割り当てられた仕事をしている。卓の上は南京鼠《なんきんねずみ》の巣でもひっくり返えしたようにどこもここも散らかっていた。原稿の書きそこないを丸るめたのや、煙草の灰、新聞のきれ屑《くず》、辞書類の開らきっぱなしになっているのや、糊壺《のりつぼ》、インキのしみ、弁当をたべた跡、――割箸《わりばし》を折って捨てたのや、時によると香の物の一切れぐらいおちたままになっていることも珍らしくない。――お茶の土瓶《どびん》、湯
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