どこへもお嫁に行かず、やはり達者で家で働いているそうだ。僕の心は今|歓《よろこ》びで波うっている。僕はこれから出かけて行く。どんなことをしてもお今をもう一度きっと僕のものにしなければならぬ。願わくば君も僕の成功を祈ってくれ。
屋外には灰の雨がますます盛んに、サラサラと幽《かす》かな音を立てて降りしきっている。太陽の色はますます鈍く曇って来た。……僕は、何だか嬉《うれ》しくてしようがない。僕は一生涯《いっしょうがい》この高原から下らないかもしれない。……」
[#ここで字下げ終わり]
日本紙へ書いたのに、万年筆のインキが少くなってでもいたのかところどころにポテリと大きなしみ[#「しみ」に傍点]が出来ていたりしてかなり読みにくかった。
そのころ、曽根の社では、(川へ落ちる)という言葉がはやっていた。人と人と議論でもしていると、そこへ行って(君たちの議論の行く手には溝川が流れているようだぜ、おっこちないように気をつけたまえ)とか、誰か新らしい計画でも初める者があると、(あの計画も行く行くは川に落ちてしまうね)とか、または、(あの人の行く道には常に一つの溝川が添うて流れている)とか、こんなふうに言うのである。そしてまた、誰が言い出したものか「生命直覚の悲哀」「南京虫の哀愁」とかいう言葉が、言外の意味を多量に含んでよく使われていた。
曽根は社へ行くのが怠儀でならなかった。社へ行っても誰ともあまり語り合わず、閑《ひま》さえあればぼんやり煙草《たばこ》をふかしながらあたりを眺めていた。ほかの人たちはいずれも常のごとく何の変りもなく機械のように働いていた。各人は各人の割り当てられた仕事をして、くるくると本当の機械のように立ち働いていた。社の中では彼一人だけが別者であった。彼自身もそれを感じて時々、(俺みたいな者がいてはみんなの邪魔になるわけだ)などと独《ひと》りで思うた。
頭痛がするので一日社を休んで下宿に寝ていた。するとその翌日も面倒くさくて届だけ出して社へ行かなかった。こんなふうにして二日続けて社を休んだら、その翌日もなおのこと社へ行くのが厭《いや》になった。仕度《したく》をして家を出ることは出たが、途中から外《そ》れてぶらぶらどこという当てもなく町中をさまよい歩いた。どこへ行っても、何を見ても、何を聞いてもすべての物が自分とは赤の他人のようでさっぱり親しみを感じなかった
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