たとか、しないとか。松本もそんな地盤の上でいくら働いても働き甲斐もなければ、また働らく精もないというのだ。何やかや一切が気に入らないので毎日酒を飲んでごろごろしているので小使いがなくなり、なくなりしてこの月になって社へちょくちょく[#「ちょくちょく」に傍点]月給の前借りをやりだし、今じゃもう月末になっても貰《もら》う分が一文も残っていない、それに下宿の払いも二月ばかりたまっているし、そんなことも言った。
しかし、おしまいにはやがて昂然《こうぜん》とした調子で、「悲観することはないさ、やがて一切のことが皆どんどん経過してしまうのだ。いかなる苦悩も、いかなる困窮もいつかまた『時』とともに我々から過ぎ去り、消え去ってしまうのだ」こんなことを語り合うのだった。
翌朝、寝床を離れた時、曽根の頭は呆然《ぼんやり》していた。
蒸し暑い光と熱とを多量に含んだ初夏の風が、梅雨《つゆ》ばれの空を吹いていた。水気に富んだ低い雲がふわふわとちぎれては飛び、ちぎれては飛びしていた。地上にはそれにつれて大きな斑《まばら》をなして日陰と日の照るところとが鬼ごっこでもしているように走り動いていた。せかせかする気忙《きぜわ》しいような日であった。人の心も散漫と乱れて、落ちつかなかった。曽根は警察の留置所でくわれた南京虫《なんきんむし》のあとが、赤くはれ上り気持が悪くてしようがないので、社へ出る前にちょっと医者へ行って薬をつけてもらった。そして手だの首筋だの、外へ出て人目に触れる部分には繃帯《ほうたい》をしてもらったりした。
社へ行くと、下足番の爺《じい》さんが、彼の上草履《うわぞうり》を出しながらにやにや薄笑いして何か彼に言いそうにした。彼は何か言われないうちにと努めて不愛そうな顔つきをして急いで梯子段を上った。そこで外勤のF―何とかいった男に出会った。するとその男は、お互いについぞこれまで口を利《き》いたこともないのだが、
「おや、曽根さん、おめでとう」と言って彼の肩を叩いた。
「いや」と、あいまいな返辞をして、振り払うようにして編輯の部屋へ入って行った。
誰かぱちぱちと手を拍《たた》いたものがあった。すると、今までペンを走らしていた人たちまでそのペンを措《お》いて一斉《いっせい》に彼の方を見た。その人たちの顔が、いかにも、何か一口彼をからかって[#「からかって」に傍点]やらねばならぬ
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