いて何の渋滞もなかった。老医師の口から、ちょうど滑らかな物の上を水の玉が徐々に辷《す》べり落ちでもするかのようにいかにも流暢《りゅうちょう》に流れ出るのであった。そして、そのように喋舌《しゃべ》るという事、その事がすでに彼自身には何とも云えず愉快に感じられるらしくあった。
それに反して、庸介には、自分の考えてる事に一ツとしてこれと纒った形をしたものが無かった。それでいて、自分の面前でこんなふうに云い出されると黙っている訳にはいかなかった。父の云っている事は一から十までみんな反対しないではいられない事ばかりのように感じられた。それに、何よりもその悠揚《ゆうよう》とした話しぶりが彼には堪え得られないものに思われた。彼には、すべての真理というものがこんな風に流暢に語り得らるべき性質のものでないようにさえ思われた。こういう時には、彼はやや激して、鋭く叫び出すのが常であった。
「あなたのおっしゃる[#「おっしゃる」に傍点]ようでは、それではまるで日向《ひなた》ぼっこです。……生きながらにして美しい笑顔をしたミイラにでもなれ、という事と同じです。そんな事が我々にできましょうか。……第一、退屈で我慢ができないでしょう。しまいにはその退屈のために世界中が窒息して亡びて仕舞うかも知れません。……」
彼の言葉は、すぐにぽつり[#「ぽつり」に傍点]と切れてしまう。そしてそれに続かる言葉が、もういくら探しても、おそらくは全宇宙に一つもないように思われた。
「己《おの》れの自我が無いところに全実在が何でありましょう。」
「たった『一日』しか願わない人間があったとしましたら……。」
「そうです。二度と帰って来ない決心で進んで行くとします。――一ツの埒《らち》を破り、また他の埒を越え、こうして限りなく突撃し、拡大してゆくとします、そういう事をする性質をおのずから具《そな》えた者があったとしたらどうしましょう。封じる事を厳しくすればするほど、抑える事を重くすればするほど、いよいよ爆発するような事があったとしたら?」
「みんなといっしょに居る事に堪えないような人があったとしたら、そしてその人はみんなの中に混り込んでいればいるほど悲しく淋しくなって来て、どうしてもそれに堪え得られないとしましたら……。」
「崇《とうと》き憤り!」
「際涯なき自由!」
彼は、ついに、一つの句さえ満足に云えないようになって行くのであった。そして自分の云っている事が自分ながらあまりに乱暴で、粗雑で、あまりに空元気のような気がしてならなかった。
老医師は、おいおいと、自分の息子があまりに激越してゆくさまを愍《あわ》れに感じ出すのであった。そしていつの間にか、話題を巧みに他に滑らし行くのであった。
庸介は、これらの議論の後に心の中で、静かに、
「いつか、俺の考をちゃん[#「ちゃん」に傍点]と纒めて書いてみよう。」こんなふうに云う事もあった。しかし、筆を執ってみると、各の思想と、各の思想との間には常に千万の距《へだた》りや矛盾やがあるように思われたり、言葉と言葉とがおたがいに相続き合う事を妙に拒《こば》みでもしているように感じられたりしていつも五行と書き進める事ができなかった。やがてその原稿を引裂いて投げ捨ててしまうのであった。
時にはまた、父は静かな調子で「家」の事を庸介に話して聞かせた。
この家では、いまだに相続する人が定っていなかった。というのは、長男の豊夫というのが今から十年ほど前に家出をして、そのまま今に、帰って来る事やら帰って来ないものやらそれさえ明らかでないのであった。彼は事業熱のために家の金を持ち出して、それで東北地方へ行って林檎園を企てようとしたがうまく行かず、それから山林、牧畜などにも手を附けようとしたがいずれも物にはならず、ついに北|亜米利加《アメリカ》へ渡って労働に従事した。それからが六年ほどになる。それでやはり面白い事もないらしい。最近に次男の修二のところへ来た手紙には、「……さて、愚生には当分帰国出来そうにもない。一生をこの地で過すやも知れないから、愚生の事はこの世になきものと思って後の事はくれぐれもよろしくお願いする。いずれ土産でもできたら一度みんなにお目にかかりに行こう。何分にも遺憾至極なのは今もって父母に御報恩|相叶《あいかな》わない一事だ。貴下にはできる限り御孝養のほど御願い申上げる。……愚兄より」こんな意味の事が書き記されてあった。
次男の修二は、夙《はや》くから実業に志し、これは万事好都合に運んで、今は神戸の街にかなりの店を開いてそこの主人として相当に活動している。こんな訳で今更ら、こんな所へ来てこんな家の相続をするなどは思いも寄らぬ事であった。その次ぎがこの庸介であるが、この問題はそこまで行く前に律子の上に向けられた。彼女は豊夫が、家出をする一年前に持った唯一の子供であったので、それに養子婿をさせて……という事に親族会議でほぼ定められてあるのであった。
「養子と云ったところで、立派な教育のしてある者は、なかなか、手離そうという親もなし、それに本人にしても、そんな事はあまり望むものでもなしさ。……それだから、性質の良さそうなものを今のうち貰い受けて、こっちの手で教育しようかと思うているのだよ。……この隣り村に一人気に入った子供があるのだが、両親が承知してくれれば良いがと思うているのだ。」こんなふうに云い出すのであった。
「やはり医者がよかろうと思うのだ。とにかく、こうしてこれまでやって来たのだし、このままあとを絶やすのも惜しいと思ってね。それに、そうなれば私もいっしょにやる人ができてどんなに好都合だか知れやしないしね。」
「は。」
「あの子も、来年はもう十三歳になるんだ。あと二年で女学校へ入るだろうし、それから四年するともう卒業するのだ。月日の経つのはほんとに早いものさ。そういうている内についそんな時がやって来るのだ。」
「は。」
庸介は、父の考え方と自分の考とがひどく違っていることを思うた。ある時、彼は、
「養子なんてことは、大体があまり結構なものではありませんね。」こんな事を云った。
こんな話しの出る席には、彼の母も加っているのが常であった。庸介のこの言葉は彼の母の心をぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と荒らく掴《つか》んだ。彼女はすぐに、
「なぜだい。しかし、やむを得ない時にはね。」と云わないではいられなかった。
続いて父が問うた。
「ほかに何か名案でもあるというのかい。」
「しかし、そんな不自然な事をしたって、結局、いたずらに複雑と面倒臭さとが殖えるばかりじゃありませんか。」庸介は何の気もなくこんなふうに答えるのであった。
「と云って、この先、それではこの家はどうなって行くのだい。」父が重ねて問うた。
「その時には、またその時にする事があるでしょう。」
「と、いうと?」
「さあ。」
黙って考に沈んでいた母が、この時、悲しそうな顔をして、
「つまり、お前のような事を云えば、この屋敷はしまいには畑になって行ってもかまわないと云うようなものではないかね。」と云った。
「そうかも知れませんね。……しかし、どんな事があろうとも、あなた方の生きておいでの間はそんな事をしない方がいいでしょう。」
「馬鹿な! 誰がそんな事をするものか。」父は云った。
「何だか、わたし、いやだね。」母が云った。
「庸介の云うようでは、まるで無責任きわまった話しだ。まったくさ。先祖代々の屋敷を畑にして良い位なら、何で私達がこれまでこんな苦労をして来たであろう。」たまりかねたようにして父が云った。
「しかし、私共がまたどこかで新らしい先祖となって行ったら、それで同じことではありませんか。――私などの考ではこういう事はできるだけ自由な、どうでもいいような気持ちでいられるのが一番幸福だと思うんですがね。」
「あゝ、厭だ。もう、そんな話しは止《よ》しにしよう。……そんな事を考えるとほんとに心細くなってしようがないから。……だから妾はいつもそう思っているんですよ。どうかして妾は誰よりも先きに死んでゆけばいいとね。……あとに一人ぼっちで残されたりしたら妾、ほんとにどうしよう。……」
母が、こう云い出したので庸介は、自分が今何を云っているかという事に初めて気が附いた。「何という事だ。俺は実に何という馬鹿者なのだ。何の益にもならない、下らない事をしゃべり散らして、それがために父や母はどんなにか心を傷《いた》めておいでの事だか……」こう思うて急に口を噤《つぐ》んだ。自分の無分別がたまらなく口惜しかった。で、彼は、まるでお詫びでも申上げるように、
「お母さん、これはみんな、いつもの私の出鱈目《でたらめ》なんですよ……馬鹿な、そんな事を云い出しっこはなしにしましょう。ね、みんなじょうだん[#「じょうだん」に傍点]なんですよ。……それに私のような者が何を云ったって、どうなるもんでもありゃしないじゃありませんか。」と云った。
何もかもこの一言で、今まで云った事をすっかり烟《けむり》にして掻き消したいものだと願った。
八
太陽が地平線へ沈んだあとのしばしが間の野のながめ、その美しさ、その静けさはまた何に譬《たと》えよう。……畑中の並木が紫に烟り、昼間は藍色《あいいろ》に見えていた遠くの山々が、今は夕栄《ゆうば》えの光りを受けてほとんど淡紅色と云い得るまでに淡く薄い色になってゆく。まるで(色づけられた気体)と云ったように……あたり一面に低く白い雲が下りて来る。野の末は次第に空と溶け合い、そしてそこからやがて静かな重い夜が迫って来る。するとそれを待ちかねていたかのように村々の寺からつき出す鐘の音が、一時に長く鳴り出す。平安の夕べを讃美するように、またこの平安の耕原を祝福するかのように、あとを曳いて遠く物静かに響きわたる。……
「俺は、もう何にも云うまい。」こう、庸介は心に深くきめた。
「俺が、彼等に何をしてやる事ができるのだ、彼等は俺に何も望んでいるのではない。そしてまた、自分から云ってみても、彼等をみだりに乱したりする必要が何であろう。……飛ぶ鳥をして飛ぶ鳥の歌を唄わしめるがいい、野の草をして野の花を咲かしめるがいいのだ。何者がそれを妨げたり、それに手入を加えたりする事がいろう。……俺が今、どのような思想を持ち、どのような人生観を抱いていたからと云って、それはみんな俺一人のことだ。むろん、俺はそれを何者からも自由にさして置いて貰いたい。その代り、俺もまた、俺の思想、人生観のために他人をとやこう[#「とやこう」に傍点]しようとはしまい。通じ合い、融け合うものなら、おのずからにして通じ、おのずからにして融け合うであろう。我々はそれを待つほかないのだ。そうだ。自分が偉大になり、自分が成就《じょうじゅ》するのゆえをもって他を騒がし、他をそこねたくはないものだ。――例えば善悪のような場合にしても、悪を滅さなければ善がなり立たないように考えるのは誤ではあるまいか。善の生長、善の存立のために強《あなが》ちに悪を圧し、悪と戦わねばならぬような善なら、そんな善なら俺は賛成できない。……泥海の底で、真珠が自分の光を放っていたってそれでもいい訳ではないか。」こう思うのであった。
その日は、初秋の風が朝から家のぐるりをさらさら[#「さらさら」に傍点]と廻っていた。家の前の大きな竹林が、ちょうど、寄せてはかえす海の波のような音を立ててざわめいて[#「ざわめいて」に傍点]いた。何となく遠い事がそこはか[#「そこはか」に傍点]となく忍び出されるような夜であった。この六年の間、いろいろに結びつき、また離れ合った彼、彼女、彼等、彼女等――都恋しい思いがたまらなく彼の胸に迫って来るのであった。
彼は押入れの戸をあけて、一本の葡萄酒《ぶどうしゅ》の瓶をとり出した。そして、それを台のついた小さなグラスに汲んでちびりちびり[#「ちびりちびり」に傍点]とやり初めた。酔《よい》が快く廻って行った。
母屋《おもや》の方はもうすっかり[#「すっかり」に傍点]燈火《あかり》が消えて、家の人達は誰もか
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