その巣を覗きに行った。
 彼の背丈《せい》を埋めそうに麦が伸びて、青い穂が針のようにちかちか[#「ちかちか」に傍点]と光っていた。菜の花が放つ生温い香気が、彼を噎《む》せ返らせそうにした。
 五日目の午後、学校から帰ってすぐにそこへ駈けつけた時、彼はとうとう、昨日までの三個の卵の代りに、飛び立つ事ができないでしきりに鳴いている三羽の小さな雛を見た。彼は、あまりの嬉しさに両の目から涙が流れ出たほどであった。手で触ってみると、赤々した肌が柔かくて暖かった。
 彼はそれを籠の中へ入れて育てた。水といろいろの食物とを与えた。青菜を擦ってこしらえた食物を彼等は一等お甘味《いし》そうにして食べた。彼が指先へそれを着けて籠の中へ突込むと、腕白《わんぱく》そうな大きな眼を見開いて、黄色い縁《ふち》のある三角の口を大きく開けて、争うてそれを食べるのであった。
 ところが、一週間と経たないうちに、お尻の所がいちように青く腫《ふく》れ出して、腐れ出して、とうとう三羽とも可哀相にころり[#「ころり」に傍点]と倒れてしまった。
 下男の敬作(そうそう、あの頃はそういう名の男が居たっけ。)は、
「糞《ふん》づまりでさ」と事も無げに云った。彼は、自分の無分別のために飛んだ気の毒な事をしてしまったものだと、心から悲しく思った。……そこで、彼は、その三つの死骸を一つの彩色のしてある玩具箱の中へ入れて、例の大きな柳の樹の根元へ持って行って、丁寧に葬ってやった。――
 庸介は、そこの赤楊《はん》の木の根に尻もち[#「尻もち」に傍点]をついて、われにもなく、恍惚《こうこつ》として遠い昔に思を馳《は》せているのであった。彼の足もとのあたりには、小さな赤蟻の群が頻りに何か忙しそうに活動していた。彼の虚《うつろ》な目は見るともなしにそれに見入っていた。
「あら、兄さん。まあ、そんな所で何をしていたの?」
 急に、つい近くで、こう呼びかける房子の透き通った声がした。びっくりして目を上げると彼がさっき渡って来た小流れの方から房子と律子とが走《か》け出して来るのが見えた。二人とも、海水浴をする時のような、鍔《つば》の広い麦藁帽をかぶっていた。そして妹の方は長い竹の先端へ小さな網を結び附けたものを持ち、姪の方は、絵模様の附いた玩具のバケツをさげているのであった。
 房子は、庸介のそばへ来ると、少し甘えた調子で、
「律子が、麦魚《うるめ》を採ってくれってきかないんだもの。暑いから止しましょうって云ったら『日曜日くらいは妾と遊んでくれたっていいじゃないの』って泣き出すんですもの。」と、云った。
 そして今度は、律子の肩へ手をかけて、
「さっき泣き出したのはだあれ[#「だあれ」に傍点]?」
 こう云って律子の顔を覗き込むようにしてにっこり[#「にっこり」に傍点]した。
 庸介は、なんだか、自分が責められているような気がした。妹から、「あなたは何という不愛相な兄さんなんでしょう。妾になんかちっともかまって[#「かまって」に傍点]くれないのね。」とでも云われたような気がしたのであった。そこで彼は元気よく、
「どれ、僕が採って上げよう。ね。律子。」
 こう云って立ち上った。

     五

 房子は、自分自身を不幸《ふしあわせ》であるとは思えなかった。とは云え、自分のしているどの一つ一つについて考えてみても、またそれらをみんな集めた自分の生活全体というものを考えてみても、どうしても「これで良いのだ。」という確信を持つ事ができなかった。そうかと云って、それをどうすれば良いのだかほかに何を初めたらばよいのだかを知らなかった。それがために彼女は、どんな場合にでも何かしらある同じ欝憂に出遇わない訳にはゆかなかった。それはきわめて幽かなものには相違なかったが、彼女の心ではとても測り知り得られないほど広い、大きな、――云わば、何もかも、世界中のあらゆる物をそれで包んでいるのではないかとさえ思われるようなものであった。それを思うと、彼女はいつも妙に退屈を感じた。何をしている時でも、すぐにその事が退屈になり出して来るのであった。
 それは、もう、長い長い以前からの事であった。
 女学校の三年級であった時、彼女は、ある書物の中にちょうど自分と同じような事を思うている一人の少女の事が書かれてあるのを読んだ。すると、その少女に対して、その叔父に当る、ある学識のある親切な人が、
「それは、……そうだ、(何か、こう、善い事をしたい。)こんなふうに考えてみるのだ。(何か、こう、有益な事をしたい。)こんなに思うてみることだ。……」
 こんな工合に答えていた。
 房子は、それは恐らく真理なのだ、と思うた。しかし、それを直接わが身の現在の境遇に引移して考えてみると、まるで大空を眺め上げるようで何のあても見出せないのであった。また、ある時、学校の倫理の教室で、あの温良な、年老いた先生は次のように云われた事があった。
「人間はいかなる場合に立到っても決して迷う事をしてはいけません。絶望するという事があってはいけません。常に『限りなき前途』という事を考えるのです。――否、そう云ってはかえって解らなくなるかも知れません。まあ、こう云いましょう。あなた方一人々々について考えてごらんなさい。――例えば将来に、立派な人の妻になる時の事を考えるのです。そう願うのです。もしまた、不幸にして自分の夫となった人が邪《よこしま》な人間である事を見出した場合には、自分の純白な心をもって、それを何とかして正しい道に導き入れてやろうと思うてみるのです。そういう風にして立派な勇気を養うのです。……それから、やがて二人の間に生れて来る自分達の子供の事について考えてごらんなさい。さて、その子供というものはまあ、何と云ったら良いのでしょう、それは、どんな子供でも遣《や》り方《かた》一つでどんな立派な人間にならないとも限らないのです。……この点です。もしも、万一、あなた方が自分自身に望みを失うような事があった場合か、もしくは本当に美しい謙遜な心になり得た場合にはこの偉大なる望みと結び附くことです。私があなた方にお勧めしたいのは実にこの事です。そういうと、何かあなた方に対して失礼なようではありますが、自分自身が偉くなろうと思うよりは、むしろ、皆様女の方は、自分の子供を偉いものにしたいと云う事を志して頂きたいのです。……できるだけ多くの女の方が、……そこにこそ本当の『限りなき前途』があるのです。……もちろん、それがためには自分自身をも修養しなければなりません。されば、どうぞあなた方は自分の処女時代をその修養のために、そうです。立派な母となる準備のために費すようにして頂きたいと思うのです。……とにかく、……いずれにしても、いかなる場合に立到っても前途の望みを捨てるような事のないように、これだけは特によく記憶して置いて頂きたいのです。それでは、私は、『あらゆる罪悪は、まったき絶望よりのみ生ず。』こう申して置きましょう。」
 房子は、これをいつまでも忘れなかった。その後、幾度となくその言葉を自分の心の中で繰り返してみた。そのたびごとに彼女はそれに少しも不同意を持ち得なかった。それにもかかわらず、例の測り難き欝憂と退屈とは依然として消え去りはしなかった。この問題はまた父の前にも持ち出された。父は、娘の云う事を静かに聞き終ると、その最後のところへ封でもしてやるかのように、厳重な語調をもって、しかもいかにも慈愛の籠った声で、
「房子や、お前には何の不足しているところはないのだよ。たゞ、少しばかり身体が弱いだけだ。これとて気遣う事などは少しもない。これからは私達の側で、できるだけ身体を動かすような事をして、できるだけ日光に当るような工風《くふう》をして、そしてもう少し丈夫になってくれさえすればよいのだ。それですっかり良くなるのだよ。ね、房子や。そのほかの事は何もかも私達にまかせて置きさえすれば良いのだから。」こう云うのであった。
 父は、彼女に、屋敷続きになっている一つの畑を与えた。それへ数種の果樹を植えてやった。苺《いちご》の苗を買ってやった。草花の種子や球根やをいろいろ遠い所からわざわざ取り寄せてやった。鍬《くわ》や、鎌や、バケツや、水桶や、如露《じょろ》や、そう云ったものを一式揃えて持たせた。……間もなく彼女はこの仕事(?)にかなり深い興味と趣味とを感じて来た。うっかり[#「うっかり」に傍点]しているとすぐに夥《おびただ》しく繁殖する、果樹につく天狗虫《てんぐむし》、赤虫、綿虫や、それから薔薇や他の草花やの茎にとかくつきたがる油虫やの類《たぐい》を見つけ次第に一一除《と》り去ってやった。それは、良い果実を収穫し、良い花を咲かせたいという考よりもむしろ、それ等の木や草やを愍《いた》わり愛する情のためからであった。房子は、今、朝顔の鉢を幾つとなく持っていた。竹や葭《よし》を綺麗に組み合わせて小さな小屋形のものを作り、それに朝顔を一ぱいに絡《から》ませたりしてあるのも、その園内に持っていた。
 ある日の暮れ方、房子が、襷《たすき》がけになってそれ等の草木に一生懸命になって水を与えているところへ、庸介がやって来た。彼は、仕事の済むまで妹の邪魔をしまいと思って、入口の所で黙って立っていた。すると、すぐに房子がそれを見つけて、嬉しそうに走《か》け出して来て兄を中へ案内した。青々としたすべての葉が、今|灌《そそ》ぎかけられた水のためにいっそう生々と光沢を添えて、見るからに健康そうで幸福そうであった。煌々《きらきら》と光る露のダイヤモンドが、方々で幽《かす》かな音を立ててしきりに滴《したた》っていた。
 二人は、その園の一隈にあるベンチの上へ並んで腰をおろした。
 庸介は非常に爽やかな気持ちになって来た。それと同時に、妹の房子がこれまでになく可愛らしく感じられて来た。彼女は、その辺にある、まだ花を附けない二三の草花について説明をした。それから、どうしたのだか、そのベンチのすぐ側の所に植えられてある、咲き揃うているスウィート・ピーの花にじっと見入りながら黙り込んでしまった。兄は、妹のそのようすに気がつくと、「このような、可憐《いたいけ》な少女の心にも何かなやみ[#「なやみ」に傍点]と云ったようなものがあり得るものだろうか。」と思った。「もしも、実際にそんなものがあるのだとすれば俺の力で何とかそれを今すぐに除き去ってやりたいものだ。」心の中で静かにこう云った。しかし、彼は、そんな事は素振りにも見せずに、
「何て綺麗なんだろう。そして、まあ、何て可愛らしいんだろうね。この赤い花は!」
 うぶ[#「うぶ」に傍点]毛の生えている妹の白い手を執《と》らぬばかりにして、こう云った。
 こう云われて房子ははっ[#「はっ」に傍点]とした。そして懶《ものう》げに、とは云えいかにも懐かしげに、
「え。わたしはこの花が大変に好きなんですのよ。」と、云った。
 彼女は、先刻から、いつか一度は試してそれに対する兄の意見を訊《き》いてみようと思っていた例の自分の唯一の問題についてしきりに考えていたのであった。兄さんこそは本当に自分の心に納得《なっとく》できるような答をしてくれる人だと、ずーっと以前からそう思うていたのであった。兄さんは、何と云っても自分の知っているすべての中での一番立派な思想家なんだ、とは彼女の堅く信じている所であった。それに兄さんは誰よりも今の若い人達の心をよく知っている。そして事実、東京で若い多くの女のお友達もおありの事であったろうし……こんなふうにも思うているのであった。――いつか云い出そう、云い出そうと思いながら、いつも良い機会を見出せないでいたのを、今こそはもっとも良い時だと、先刻、最初に兄の顔をちら[#「ちら」に傍点]と見た時にすぐにそう思ったのであった。
 幾度か口の中でためらった[#「ためらった」に傍点]揚句《あげく》、
「妾《わたし》ほど不用な人間は一人もありませんわ。……妾は自分が哀れで堪まりません。……妾は何をしたら一番善いのでしょうね。兄さん。どうぞ、それを教え
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