の夏、裏の畑の中へ灌水用の井戸を掘ったところが、そこから多量に瓦斯《ガス》が出だして、あまりたくさんに出るままにタンクを据えつけて、今でもそれで台所の煮焼から風呂場まで使ってそれでもまだ余るほどであるという事や、つい先達《せんだって》、家の前を流れている△△川が近年にない大洪水になって、ちょうどこの村の向岸が破堤して、凄まじい響を立てて轟々と落ち込む水の音が、三日三晩も続いて、それがどんなにか自分には恐ろしく感じられたかと云う事やを熱心に語り続けた。しかし、最後に彼女は、
「妾《わたし》だって、ついこの四月までは女学校の寄宿舎でばかり暮らしていたんですもの。そんなに、いろんな事はよくは知らないわ。」と、つけ加えた。
庸介の頭は、まるで乾ききっている海綿が、水の中へ入れられてもすぐに水を吸いこまないように、今、妙に落ち付かない心持ちのために、妹のこれらの言葉には何の交渉をも持ち得なかった。その代りに彼は、妹の頬に浮んでいる美しい赤い血の色や、よく潤《うるお》うている口の中や、その奥で見え隠れしている宝玉のような光沢を持った純白な歯やに我れにもなくじっと見入っているのであった。そして無意識の間に、自分の内なる本能の一部分が狡猾にもその事によってある幽《かす》かな快感に耽っているのであった。彼はみずから、それに気がついた時、驚きと羞恥とのために周章《あわ》てて眼を他に転じた。しかし彼女は、そんな事を露ほども感じなかった。
彼女は喋舌《しゃべ》る事に油が乗って来て、問われもしないのに今度は続いて女学校にいた頃の事に語り及んだ。
数多くの学友の事、先生達の事、寄宿舎の部屋部屋のはなし、食堂、浴室のありさま、――その浴室には素晴らしく大きな鏡があって、それへ自分の裸体の全身が初めて写った時のどんなに羞《はず》かしかったかという事、それから非常に親しくし合った友達が都合四人できてその人達とよく他人に隠れてその浴室の大鏡の前へ並んで立ったという事や、それから、やはりその中の一人で寺本さんという人が巻煙草をすう事が好きで、それが舎監に知れやしないかとどんなに心配していたかという事や、そんな数知れない多くの事を語った。語り終った後になって、彼女は、「それにしても、あんまり何もかも話し過ぎた。」と思った。が、また、「やっぱりこの方が良いんだわ。そして一時も早くすっかり兄さんと親しくなってしまわなければ……。」こうみずからそれを打ち消した。そして、
「兄さん! 妾、もうこれですっかりだわ。この外にはもう何んにも云う事なんかないわ。――あるかも知れないが思い出せないわ。」と云って、少し羞《はず》かしそうに、しかしいかにも満足そうににっこりした。
その日の午過《ひるす》ぎ頃、庸介の父は、その日の最後の患者であった中年の百姓女の右の乳の下の大きな腫物《はれもの》を切開して、その跡を助手と看護婦とが二人がかりで繃帯《ほうたい》をなし終えるのを見ると、急いで外科室を出て来た。そして白い手術服を着けたままで、医院の方の応接室で庸介に遇った。
久しぶりの対面なので、おたがいに何と云っていいか適当の言葉を見出せなかった。
「まあ、そこへお掛け!」
こう云って、父は、露出《むきだ》しにしてある手を挙げて卓《テーブル》の側《わき》の一つの椅子を指差した。そのようすは年に似合わずいかにも元気に見なされた。老医師はあらかじめ自分でそれと知っていた。そしてわざとこの科《しぐさ》をこの場合に用いたのであった。
庸介は心持首を垂れて、重く沈黙していた。それに引替えて父の方は、できるだけそうした気分を打ち破ろうと努めていた。で、次のような事を云い出した。
「道中はどうだったな。信州の山々は今はちょうど青々と茂り合っていて、さぞ気持がいい事だったろう。……新聞でみると浅間山がこの頃だいぶ穏《おだやか》でないように書いてあるが、よっぽどさかんに煙をふき出しているかね。」
「そうですね。私が通った時には、ちょうど煙が見えませんでしたが、汽車へ乗り込んで来たその土地の人の話では、何でもひどい時には上田の町あたりまでも灰が降って来るという事ですね。それがために今年はあの地方の養蚕《ようさん》がまるで駄目だという事です。」
「そうか。」
「桑の葉が灰だらけになってしまうのだそうです。」
「なるほど……。」
庸介は、限りなく空虚な感じがした。まるで自分自身の口で物を云っているのではないようにさえ思われた。自分のそばにもう一人、誰か他の人がいて何かしゃべっているとしか思われなかった。
「何しろ、十五六時間も汽車に乗り通したんでは、さぞ疲れた事だろう。」
「え、おかげさまで、今朝はとんだ寝坊をしてしまいました。つい、今しがた起きたばかりなんです。」
「はゝゝゝ」
庸介は「何という拙劣な事だ!」と思った。「まるで会話の体をなしていないじゃないか。」とさえ思った。彼は、さっきから、今度自分がこうして帰って来たことについて、それから、先日、父の送ってくれた為替券のことについてそれとなく一言言い及びたいと思っていた。そうでないといつまでも中途半端な所に落ち着かないでいるようで、いかにも気が済まなかった。しかし父の方では、何の怪我もなくこうして彼が帰っている事であれば何も大して案じる事もなかった。今は、彼に、もう一度世の中へ勇ましく出発してゆくだけの勇気を得させるようにひたすら努めさえすれば良いのだと、こう思うているのであった。
彼がもじもじしているうちに、また、父の方から口を開いた。しかし、今度は今までよりもやや厳格の調子であった。とはいえ、やさしく、
「お前が帰って来てくれてちょうど良かったんだ。私は今、ある翻訳を初めているんだ。――なあに、同業者の間に出しているある雑誌から頼まれたのだ。――ところが、この頃は絶えて物を書いた事がないので文章がどうしてもうまくいかないのだ。それにはほとほと弱っている。……急ぐのではないが少し落附いたら、一つそれを読み良いように綴り合わして貰いたいと思っているんだがね。……」と、云った。
彼は、すぐ今日からでもお手伝しようと云い出した。それではとにかくその原稿を見せようから、という約束をして二人ともその応接間から外に出た。そこの戸口の所で二人は右と左とに別れた。
四
翌日の午後には夕立があった。それから二三日また一滴も降らなかった。その代りに夜は溢れるように露が何でもかんでもを潤《うる》おした。
庸介は家の中を、あっちの部屋、こっちの部屋とぶらぶら見舞って歩いた。いかにも興味なさそうにしながらも色々の物を一々じっと凝視《みつ》めては過ぎて行った。口を堅く閉じて一言も物を云わなかった。それからまた、庭へ出て行った、家のまわりをゆっくり巡《めぐ》った。裏手にある納屋《なや》や小屋類の戸を細目に開けて、薄暗い内部をそとから覗き込んだりした。しかしこれらの生活は彼にとって決して愉快なのではなかった。それと同じように、そうして彼にみまわれ、彼に凝視められるすべての物もまた決してそれを愉快には感じなかったであろう。それどころではなく、中には彼の視線に対して、明らかに醜い反感を示し、
「悲惨なる友よ。虚無の眼よ。……何だってそう薄気味悪るく俺を凝視《みつ》めるのだ。なあにお前達のようなものに幾ら睨まれたって俺の値打は決して変らないのだからね。何で変ったりなんぞするものか。……しかし厭だ。もう止してくれ。お前に用はない。早くあっちへ行ってくれ。」
こう呟《つぶ》やき出すものなどもあった。彼が、客室の床の間の前に立った時、そこに何か黒く光る木の台に載せられてあった白色の半透明な石材の香爐と、そしてそれに施こされてあるきわめて微細な彫刻とが確かにそうであった。庭に在る、苔《こけ》むした怪しげな古い石や、不自然に力《りき》みかえっている年老いた樹木やは、彼に対して皮肉な、不明瞭な説明を試みた。否、説明ではない、それはむしろ毒々しい嘲笑であった。そして彼はどこへ行っても、自分自らのこの上もなく貧しい事と、何物とも馴染《なじ》み得ない孤独とを感じた。
帰郷して五日目の朝、彼は初めて裏門を出て、そこに遠く展《ひら》けている豊かな耕原を眺めた。
夏の真紅な日光があらゆる物の上に煌々《こうこう》と光っていた。彼の目にそれが痛く感じられるほどであった。遠い左手に当って大きな桃林があった。その林の上では薄緑色の陽炎《かげろう》がはっきり[#「はっきり」に傍点]と認められた。右手には美しく光る青田が限りもなく続いていた。他の方面に、そこにはキャベツ畑の鮮明な縞があった。近い南瓜畑《かぼちゃばたけ》では熊蜂のうなる音がぶんぶん聞えていた。高く葦を組んでそれに絡《から》み附かせた豌豆《えんどう》の数列には、蝶々の形をした淡紅色の愛らしい花が一ぱいに咲いていた。農夫とその女房達やが、そこここに俯向《うつむ》いて何か仕事をしていた。とは云え、これ等は何も決して物珍らしい景色というのでもなかった。ことにこれは、彼にとってはこれまでに飽きるほども眺めかえされて、……と云うよりはむしろ、あまりに親しいがままにかつてはことさらに眺めるという事さえなかったほどのものであった。それだのに彼は今ここに立って、云うばかりない清新の感にうたれて子供のように歓《よろこ》ばしくなって来た。それがために、自分の現在のさま/″\の事も何もかも一遍にどこかへ消えて行ったかとさえ彼には思われたほどであった。
彼は、畑と畑との間を辿《たど》って進んだ。河骨《こうほね》などの咲いている小流れへ出た。それに添うて三四町行くと、そこに巾の狭い木橋が架《かか》っていた。そこからほど遠からぬところに、さほど広くもないが年中びしょびしょ[#「びしょびしょ」に傍点]している一つの荒地のあった事を思い出したので、彼はそれを目あてに歩いて行った。その場所は、今はだいぶすでに開墾されて立派な畑地になっていた。それでも残余の部分には、一面に雑草が繁り合い、所々に短かい葦などが生えていたりして、どこかにまだ昔の面影が忍ばれた。赤のまんま[#「赤のまんま」に傍点]や、金ぽうげ[#「金ぽうげ」に傍点]などが昔のまゝに多くそこに認められた。
彼は、そこに大きな柳の樹が一本あった事を忘れる事ができなかった。が、それはもう見られなかった。その柳の樹には、彼が幼年時代のもっとも鮮《あざや》かな思い出の一つが宿されていた。それは、歳月とともに次第に薄らぎ滅びてゆく過去の多くの記憶の中に、それのみは独ります/\生々と光を増して来るような種類のものであった。
――彼は、まだ九歳か十歳であった。春の日のある暮れ方二三の遊び友達と遊んだあとで何かつまらない落し物を探していた。その時はそこに自分一人だけであった。と、ふと[#「ふと」に傍点]した機《おり》に、彼はその大きな柳の樹の根元の草叢《くさむら》の中に雲雀《ひばり》の巣を見つけ出したのであった。彼は躍り上るようにして喜んだ。どうしようと云う訳もないのだが、たゞむしょう[#「むしょう」に傍点]と嬉しくて胸がいたずらにどきどき[#「どきどき」に傍点]するのを覚えた。藁屑や、鶏の胸毛や(人間の女の毛なども混じっていた)で巧妙に造られたその巣の中には、灰色の小さな卵が、三個まで数えられたのであった。親鳥が自分の頭の上でしきりに鳴いていた。それに気がつくと彼は、つとそこから離れた。それは、この巣の主が、この乱暴者のために自分の巣を窺《うかが》われている事を知って、それを酷《ひど》く怖《おそろ》しがってその日から巣も卵も捨ててどこかへ逃げてしまいはしないかと思ったからであった。そして彼は、
「まるでうまい工合に深く草の中に隠れていやがる。これでは誰の目にも決して入りはしない。」こう囁いて、その日はそのまま家へ帰って来た。明くる朝、そっとそこをみまってみると、急に巣の中から親鳥が一羽飛んで出た。
「あ、母親だ。」彼はこう云った。そして「卵を温めていたんだな!」と思った。毎日同じようにして
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