蔽《おお》いかぶさったようになって、名前をもってたがいを呼び合うというような事が、何となくできにくいような心持ちが続いた。
 父の翻訳の方が忙しくなっていた。主にそんな事で彼は日を暮らした。それは維也納《ウィーン》のある博士が、ある医師会の席場に試みた、終焉《しゅうえん》に関しての講演の筆記であった。殆んどすべての終焉が生理的にまったく快感性のものである事を論じたので、きわめて興味深いものであった。それには、数えきれないほどさまざまな終焉の場合と、それについての饒多《じょうた》な実例とが挙げられてあった。中には、高い崖の上から落下して長い間気絶していた人や、溺死した人やのその人自身の詳《くわ》しい実話などもあった。それ等の人々は、その後他人によって幸にして蘇生させられなかったならば正しくそのまゝ絶命してしまったに相違なかったものであった。……
 その博士は貴族であった。それにゲーテなどを愛読している人のようでもあった。云わんとしている事がきわめて微細な科学的なものであるにもかかわらず、その云いまわしは典雅荘重をきわめていた。時にゲーテの詩の数句が引かれてあったりした。
 彼は、明快を主
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