、房子は瞳をぶるぶるふるわして物を云う事さえできないようすであった。家の人達には、房子が何でそんな事になったのだか、ずーっと後まで解《わ》からなかった。何でも何か干物の入れ忘れていたのを急に思い出したので、もう日が暮れていたがすぐ二十足も歩けばよい所なので提灯《ちょうちん》を持たずにそれを取り入れに行くと、どこかの物蔭に隠れていた一人の若い者が急に忍び寄って来て、いきなり[#「いきなり」に傍点]房子を抱き上げた。それでびっくりしたままに思わず大声あげて叫び出したのであった。がそのあとはどうなったのか彼女自身にもわからなかった。
房子は、すぐに寝床の中に横にされたが、しばらくすると非常な大熱になった。氷嚢《ひょうのう》で、取換え取換え頭を冷してやった。いろいろ[#「いろいろ」に傍点]薬も飲ませたが、何もかも一向にその効目がなかった。現実の物の形や、響きや、それ等が彼女には何の交渉もなかった。そして、絶えず何か恐ろしい幻影に追い責められてでもいるらしく、それから逃れでもするようにしきりと身体をもがいた。両手でしっかり[#「しっかり」に傍点]顔を蔽《おお》い隠したり、また、時々訳のわからない事を云って悲鳴をあげた。静かな眠りは一時間と続くことがなかった。……身体は燃えるように熱かった。こんな事がちょうど三昼夜もつづいた。
めずらしく彼女は静かにすやすや[#「すやすや」に傍点]と眠っていた。そしてその後に目を開いた時に、初めて再び彼女は幻影の世界から帰って来た。
房子は、そこに附き添っていてくれた兄の顔を懐しげにじっと見入った。そしてあどけない羞《はじ》らいを帯びた微笑を口元に浮べて、
「兄さん!」と呼んだ。
庸介は、ほっと[#「ほっと」に傍点]安心した喜ばしい顔を妹の顔の上へつき出して、
「おや、房子、お目覚めなのかい?」と云った。そしてその額のところを軽く撫でてやった。
「何だか、……わたし大変だったわね。」と、晴やかに云って、それから「いったい、どうしたんでしたの?」と憂わしげに附け加えた。
それにもかかわらず、兄は、
「それよりも、お母さんをすぐに呼んで来てあげよう。ね、すぐに来るから。」こう云ってそこを走り出た。
父も、母も、一同が房子の枕元へ集って来た。房子が、やがて、
「もう、すっかり良いようよ。妾、大変にのどが乾いたから何か飲むものを少し頂戴な。」
こんな事を云い出したので、みんなすっかり、楽《ら》っくりして悦《よろ》こんだ。病人がしきりに事のおこりを聞きたがるままに、母がそのあらましを話してやった。房子は熱心にそれに聞き入っていたが、急に、酷《ひど》くふさぎ出した。それからやや長い間何か深く考えこんでいるようすであったが、急に、いかにも絶望的な声をあげて泣き出したのであった。誰一人としてその意味がわからなかった。いたずらにまごまご[#「まごまご」に傍点]して彼女の背中を擦《さす》ってやったりするほかになす術《すべ》も知らなかった。
幾日も房子の容態ははかばか[#「はかばか」に傍点]しくなかった。彼女は、誰が何と云っても黙りこんで重く欝《ふさ》いでばかりいた。時々いかにも堪え兼ねたと云ったように、わあ[#「わあ」に傍点]と急に泣き出したりするのであった。
房子は、自分の身体の所々に痛みがあるように覚えた。それは、みんな「あの時」のが残っているのだと思った。そう思うと一切がそんなふうに意做《おもいな》されて行った。どの追想もどの追想もすべて「それ」を証明するに十分であるように思われた。庸介は彼女をかくまで酷《ひど》く心痛させている根をすぐに了解できたので、妹の部屋へ行くたびに、
「そんな馬鹿な! 断じてそんな事はなかったのだよ。……僕が確に証明してやる。……お前が叫び声をあげた時と、僕が走《か》けつけて行った時との間には、三十秒とは経っていなかったのだから。」こう云って聞かせた。しかし、房子は、それを信じるよりも自分の思っている方を信ずるのが何層倍も真実らしく、かつ楽のような気がした。彼女の意識内には、次第に惑《まど》いが無くなってゆき、悲痛のみが間断なく、反対なく独占してゆくようになった。そして不思議にも今は、それの方がかえって彼女自身には安易で、どこか快いように思われてゆくのであった。仕舞には父の与える薬さえ嫌い出した。
「身体《からだ》の方はもう何ともないんだわ。それだのに何でこんな薬をいつまでも飲んでいなければならないというのだろう。」なんて云うようになった。「なんでも、妾を呆然《ぼんやり》にさせてしまって、それで『あの事』をすっかり妾から忘れさせてしまおうというんだわ。」と思った。
「そうとしても、これを飲むと馬鹿に睡《ねむ》くばかりなってしようがないんだもの。何か考えようとしてもどうしてもそ
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