る事とてさして気にも掛けなかった。ところが、都会の学校生活を終って来たばかりの房子には、それが酷《ひど》く気に入らなかった。何かにつけてそれを云い出した。
「厭《いや》だわ! ほんとに。……妾《わたし》にはとても我慢ができない!」
 そしてそれを云う時にはいつも眉を顰《しか》めて、ほとんど泣き出しそうにした。
「ほんとにうるさい[#「うるさい」に傍点]んでございますよ。昨夜なんかも終夜雨戸のそとでごとごと[#「ごとごと」に傍点]やっているんですもの。」こんな事を女中達が云う事があった。しかし、その口振りには何となくそれほど気にしているらしくもないので、それが房子には酷《ひど》く不審に思われた。
「どうかできないんですの?」
 こう彼女はよく父や母に訴えた。
 ある家では、乱暴にも女中部屋の窓を打ち破って闖入《ちんにゅう》した者があった。そこの家では、困り果てたので大きな犬を他家から貰って来て飼った。すると、一週間も経たぬうちにその犬は村の若い者どものために人知れず殺されてしまったとの事であった。こんな噂さが房子の耳にも入った、房子は歯を喰いしばって身を慄《ふる》わした。顔色が蒼くなった。「……とても我慢ができるものか。こうなっては、もう一刻もそのままにさせて置くわけにゆかない。どんな方法をしても、……ピストルでも放すほかはない。……よろしいとも!」こんなふうに考えるほど激昂した。
「今日、これからすぐに駐在所へ誰かをやって下さい。そしてお巡査《まわり》さんに今晩からよく見廻りして貰うようにして下さい。」こう云って父親に迫った。
「そんな事を云ったって、こんな大きな村に巡査が一人しかいないのだから、とてもそんな事まで手が届くものではないよ。」と、父は笑いながら云った。
「いゝえ、そんな事ってありません。それじゃ、警察署へ云ってやって大勢応援して貰えばいいでしょう。」
「ところが、こんな事はこの村ばかりというのではないからね。どこもここも一帯にそうなんだから。」
「それだからと云って、そんな……そんな、」
「房子、そんなにお前のように心配したものでもないよ。家の者にはどんな事があっても手出しなんかしやしないのだから、召使いの者共にほんのちょいと調戯《からか》ってみるだけなのだよ。」
「いゝえ、いゝえ、放って置くという法はありません。決して。……まったく許す事のできない悪い事です。それは泥棒よりも悪いんです。人殺しよりも悪うございます。そうですとも確かに。……人殺しよりも悪うございますとも。……世界中で一番悪るい事です。一人残らず縛り上げてしまうがいいのですわ。」
「そう一図にお前のように云い初めたって……。」
 両親は娘をなだめようとしたが、
「人殺しの方がどれほどまし[#「まし」に傍点]だか知れないわ、……こんな事を何ともできないくらいなら巡査なんか無い方がいいんだわ。ほんとに、……何といういまいま[#「いまいま」に傍点]しい、何という憎々しい……」
 房子はどうしても黙ってはいなかった。
 昼間はついうっかり[#「うっかり」に傍点]忘れているが、夜になると、彼女はいつも深く部屋の中にとじ籠《こも》って、そして烈しい憤りに心をいらいらさせていた。恐ろしい大蛇のような者から附け覘《ねら》われてでもいるかのように気味悪るがって、矢も盾《たて》もなく不安でたまらなかった。
「そんな者の手にほんのちょっとでも触られる位なら、その前に死んだ方がましだ!」こんなに思った。
 ……一人の大きな荒くれた男と悪戦苦闘を続けているような夢をよく見た。……短刀をもってとうとう[#「とうとう」に傍点]敵者《あいて》を突き殺してその上になおも、黒い毛のもじゃもじゃ[#「もじゃもじゃ」に傍点]生えたその胸のあたりを飽くまでも切りつけていたような夢から覚めて、びっしょり[#「びっしょり」に傍点]身体中に流れている汗を拭うために起き出た事さえ一二度あった。
 房子は、とうとう[#「とうとう」に傍点]庸介に迫って響察署へ匿名《とくめい》の手紙を書かせた。しかし、何日まで待っても、むろん何の甲斐もなかった。
 そのうちに何時か房子も馴れて来たのでか、次第に初めのような気のもみようもしなくなった。
 幾カ月か経った。
 ある夕の事、それは日が暮れて間もなくであった。家の裏手の方で、急に房子のけたたましい悲鳴が聞かれた。「それ、何事が起った!」というので時を移さず家の者は一人残らず履物を穿かずに飛び出して行った。
 人々はどんなにか吃驚《びっくり》した事であったろう。房子は、物干のところで、まるで死体のようになって地べたへ打《ぶ》っ倒れていた。慌てて水を吹きかけるやら、気つけ[#「気つけ」に傍点]を飲ませるやらしてようやくにして蘇生させた。家の中へ連れ込んで来てからも
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