。」と云ったような一種もどかしい[#「もどかしい」に傍点]ような一種くすぐったい[#「くすぐったい」に傍点]ような心持ちがおどんで[#「おどんで」に傍点]いた。
「自分には、ほんとに思い思われるという仲になった人が一人も無かった。――この事は自分のこれまでの生涯にとって何よりもの大きな不足に相違ない。それが欠けていたばっかりに、俺のこれまでは無かったも同じようなものになって仕舞ったのだ、否、ほんとにそれよりも悪いのだ。……」
自叙伝は、ほんの少し書き出されただけで放《ほう》ってあった。あとを続けようとして机に向っても心はいつもあらぬ事にのみそれて行った。ある時、ほとんど二時間近くも一字も書かずにぼんやり考え込んでいたのち、とうとう[#「とうとう」に傍点]次のような事を原稿紙に書き出していた自分を見出したのであった。
[#ここから2字下げ]
おゝ、美《うるわ》しき黄昏《たそがれ》よ。
お前は、私に何をしようとしているのだ。
それでなくとも、長い長い
悩ましさのために、
疲れ果てている私の魂は、
どんな小さなかどわかし[#「かどわかし」に傍点]にも
従うだろうものを。
………………………………
[#ここで字下げ終わり]
庸介は、自分の思いがいつからとはなしにお志保の方へ引き寄せられていたのを知っていた。それにしても、かほどまでに彼女の事が自分の心に深く喰い入っていようとは知らなかった。彼女に対してしようとしている自分のある企てが、かくまで執《しゅ》ねく自分を掻き乱し、悩ましていようとは思わなかった。
十一
裏門に近い所に一つの粗末な小屋があった。そこへ藁がたくさんに入れられてあった。それからその一部分がちょっと[#「ちょっと」に傍点]片附いていて、そこへ、一年中ついぞ使う事のないような雑具が納《しま》いこまれてあった。めった[#「めった」に傍点]に用もないので常には家の人達からまるで[#「まるで」に傍点]見捨てられているような所であった。入口が横に附いていて、そこへ出入りするに、その姿を他人から見られまいとする位の事はきわめて容易であった。それにその裏手が、梨《なし》だの桃だのの苗木が植えつけられてあり、なおそれに続いて荒れた雑木林があって、そこには食べられる小さな茸《きのこ》があったりした。そんな工合で、その辺から誰かがひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]出て来たからとて、それは少しも可怪《あや》しく思われるような事もないのであった。
庸介は、ずーっと前から、そこに深く心を寄せていた。
入口の戸がいつも半開きのままに打ち捨てられてあった。彼は時々ここへそーっと一人で忍び込んで行った。昼間でもその中は薄暮のような光しか無かった。頭の上へおっかぶさるように藁束が堆《うずたか》く積み重ねられてあった。すかすか[#「すかすか」に傍点]するような、それでいて馬鹿に甘ったるい乾藁の蒸《む》れる匂いがいつもむんむん[#「むんむん」に傍点]籠っていた。屋外の苗木林で、木の葉がそよ[#「そよ」に傍点]風のためにひらひら[#「ひらひら」に傍点]と裏返えしにされるのや、やがて枯れてからから[#「からから」に傍点]と散ってゆくさまやが、戸のすき間から覗かれた。
彼は、小半時間もそこから出て来ないような事もあった。そして注意深くあたりのようすをうかがっていた。また、どうかすると、藁束に身を靠《もた》せかけたままいつか心持が重くなってついうとうと[#「うとうと」に傍点]転寝《うたたね》の夢に入るような事さえもあった。それにもかかわらず、これまでについ[#「つい」に傍点]ぞ一度、物に驚かされたという事も無ければ、近づいて来る人の足音さえも聞かなかった。
彼は、そこから再び外へ出て来ると、いつも「まったく安全だ。」こう思わない事はなかった。
彼女の心は、すでに十分に鞣《なめ》され、撓《たわ》められてあった。この上はただ、彼女に最後の暗示を与えさえすればよいのであった。……
十二
農家では夕飯がすむと多くは早くから寝床へもぐり込んだ。若い者どもだけは、煙草入れや尺八などを腰へさしこんでそーっ[#「そーっ」に傍点]と外へ出て行った。卑猥《ひわい》な雑談にふけったり、流行唄《はやりうた》を唄ったりして夜更けまで闇の中をあちこち[#「あちこち」に傍点]とうろつき廻った。年頃の娘のいる家の裏口のあたりへ忍び寄って、泥棒ではないかと家の人達に怪しませたりする事も尠《すくな》くはなかった。庸介の家の女中部屋の裏でも時々そうした怪しい人影が出没した。夜廻りに行った人に驚いて、慌ててばたばた[#「ばたばた」に傍点]走《か》け出したりする事もたびたびであった。家の人達は老医師はじめそれを快い事には思わぬながらも、長年馴れっこになってい
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