れを長く続けていられないんだもの。何か思おうとしてもちっとも甘《うま》く思う事ができやしない。こんな風だと、かえってだんだんわたしの頭が悪くなってゆくばかりだわ。……わたし、この上にまた、気でも狂うような事でもあったらどうしよう。それでなくてさえ、『あんな事』があった身だのに。……何という情ない事になったのだろう。」と云って、気をもんでは泣き出した。
 屋外には峻酷《しゅんこく》な冬が、日ごと夜ごと暴れ狂っていた。世界はすべて、いやが上にも降り積もる深雪の下に圧《お》しつぶされて死んだようになっていた。
 ある夜、その夜も屋外はひどい吹雪《ふぶき》であった。ちょうど真夜中とも思われる頃、房子が彼女の部屋の中で急にけたたましい声で、
「……早く、早く、誰か起きて下さい。……それ! そこへ逃げて行く。」こんな事を呼び出した。
 隣りの部屋に寝ていた両親は驚いて、寝巻のままで走って行った。房子は土のような顔色をして、闇の中に怪しげにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]立っていた。どうしたのかと聞いてみると、今、自分がふと[#「ふと」に傍点]目を覚ましてみると、自分の床の中に一人の男が入っていたのに気がついた、そしてそれはいつから入っていたのだか自分にもわからなかった。……自分が驚いて飛び起きるとその男は慌ててどこかへ逃げて行ってしまった。というのであった。そして彼女は、
「事によると、先達《せんだって》の男かも知れません。きっとそうです。……そこから逃げ出たのに相違ありません。」と云って、小窓の方を指差した。が、むろん、そのあたりに何の異常のあろうはずはなかった。
 それから一週間もすると、彼女は、自分の腹の中に何か一つの塊ができて、それが時々訳の解からない事を自分に言いかけるようだ、と云うような事を言い出した。
 父はひどく狼狽《ろうばい》した。
「いよいよ駄目だ! 病院へ入れるほかあるまい。……あゝ実に情ない事になってしまった!」
 ほとんど泣き出しそうにして言った。
 母は、仏壇や神棚へお燈火《あかし》をあげてお祈りした。
 空は、いつも重く垂れていた。太陽は幾日となくその姿を見せなかった、物を裂くような唸《うな》りをあげて寒い風が時折過ぎて行った。そのたびに、幾重にも戸をとざしてある家が、がたがた[#「がたがた」に傍点]と鳴って揺れた。

     十三

 ようやくにして三月が来た。麗《うら》らかに晴れた日が続いた。長く固まり附いていた根雪が溶けて、その雪汁がちょろちょろ[#「ちょろちょろ」に傍点]と方々で流れた。黒い土の肌が久し振りに現われた。そこにはいつの間にかすでに若草が青々と芽を出していた。長々湿っていた樹木の皮からほかほか[#「ほかほか」に傍点]と水蒸気がたち上った。どこかの隅から、かの四月や五月やが人知れずにこにこ[#「にこにこ」に傍点]して覗いているような気勢《けはい》さえ感ぜられるのであった。
 房子のその後の経過はことのほか良好であった。老医師の家では彼女の退院の日を指折り数えて待っていた。帰って来たらしばらく温泉場へでもやって置いたら良かろう。そしてそれに附き添うてゆくのは庸介が良かろう、と、そんな事まで相談されていた。
 ある日の午後、庸介が、自分の部屋でしきりに何か書き物をしているところへ、そーっとお志保が入って来た。彼女のようすにはどこか落ち附かないおどおど[#「おどおど」に傍点]した処があった。彼の側近くへ坐ったまま伏目になって黙っていた。そして時々|幽《かす》かな吐息を洩らしたりした。庸介は、お母さんにでも気づかれたのではないか、そして何か云われたのではないか、と思って咄嗟《とっさ》の間に酷《ひど》く心がまごついた。が、そんな素振りは見せずに、膝の上へきちん[#「きちん」に傍点]と組んでいたお志保の手を執《と》って軽くそれを握ってやった。彼女は素直に彼のするがままにさせていたが、やはり黙り込んでいた。たまり兼ねて彼が、
「どうかしたのかい?」と、問うた時に彼女はようやく眼をあげて彼を見た。その眼は平常に似ずからから[#「からから」に傍点]に乾き切っていた。お志保は何か云おうとしたが、急に顔を真紅にした。と、たちまちのうちにそれはまた真蒼《まっさお》に変って行った。そして何故か物も言わずに男の膝の上へ顔を伏せるのであった。庸介は女がふびん[#「ふびん」に傍点]に思われてならなかった。で、愍《いた》わってやるつもりで背中の上へ自分の手を乗せた。すると、その瞬間、彼は、ごそごそ[#「ごそごそ」に傍点]した木綿着物の下にむっちり[#「むっちり」に傍点]した丸みを持った、弾力性に富んだ肉体の触感を覚えた。髪の毛の匂いと、それからどこから来るのだか解《わ》からない、ある不思議な女の香気が彼にもつれ掛って来た。
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