はいささかの凸凹もない。譬《たと》えば、ちょうど、大海原のようである。そしてその黄色な稲の海の中に、村々の森、町々の白堊《はくあ》がさながら数限りもなく点散している島嶼《とうしょ》の群のようにも見られるのであった。
彼は、ついこの三週ほど前に父の用のために、向うに青く見えているかの小山脈の麓にあるT村という所へ行った事があった。父の村からそこまでは八里ばかりもあろうか、が、汽車や汽船の便もないので人力車で乗り通した。みちみち注意してゆくと、半里に一村、二三里に一村と云った工合であった。この地方は一帯に非常に細かく耕し尽されているので、ほとんど一尺四方の遊ばせてある土地も見られないのである。云わば、地表がまったく少しの隙間もなく穀物と野菜と果樹とで被《おお》われていると云っても良いのである。それがために道にするだけの土地も惜まれ、はなはだしきは、田の中に挟まれた小部落のごときは道らしい道も通うて居らず、それで、急病人があって医者を招んでも医者が車で駆けつける訳にゆかないような所さえあるのである。
一村に三四軒位ずつちょっとした地主がある。そして三ヶ村に一軒位の割で、とてつ[#「とてつ」に傍点]もなく大きな地主がある。こういう地主になると米を毎年七八千俵から、多いのになると三万俵も、それ以上も売るというのである。で、住宅なども四囲に際立《きわだ》って宏壮なものである。多くは旧《ふる》くからの家柄で、邸の内外には数百年の老樹が繁っているのを見受けるのである。現に、庸介の親戚にも千何百年も続いたという旧家が一軒ある。――それで是等の豪家の人達がどんな暮らしをしているかと云うに、たいていは、多くの番頭どもを相手に銭の勘定をしたり、家の普請《ふしん》をしたり、庭の手入をしたり、そんなきわめて泰平な事で一生涯を終ってしまうのである。そしてこの土地から一歩も離れてみた事もなく死んでしまうものも決して尠《すくな》くないのである。……小作人共は、収穫の分け前の事で年中何かと愚痴をこぼしているが、さて、それだと云ってそれをどうしようともしない。何か良い法案を携えて地主へ願い出ようという者も一人もない。そんな所から見ると、彼等はあながちに彼等の常に口にするほど窮境にいるのでもないらしい。……
彼は遠く眺めやり、かついろいろと考えた。
実に長い長い平穏と伝習との覚める事のない夢だ。一つの村、そしてその隣りの村々、町、町々、……五里、十里、二十里……、すべてその通りだ。見渡すかぎり涯《はてし》なく続くこの耕原の中には、濛々《もうもう》と吐き出すただ一本の煙突の形さえも見出されない。どこまでも澄み切って静かである。あゝ、伝習の静けさ、眠りの静けさ、実に堪えられぬ退屈だ。どこへ行っても、いかなる家を訪れても、そこには「新らしい企て」そんなものは噂にさえ聞くことができないではないか。「何事もなかれ、ただ静かに、ただ静かに。」こういう声が形なく天地に漲《みなぎ》っているのだ。
やがて、庸介は大きな息をして、大空を仰ぎ上げた。――これはまた、何という高さであろう。まあ、実に何という美しさであろう。何という事なしにこう、「際涯もなく」という感じがされるではないか。青く青く澄んで、何とも云えず明るい。
足の下の谷々で鳴いている小鳥の声が、一つ一つ強く響き渡って、じーっと耳をすましていると、それ等の遠い近い数限りもない音のために耳の中が一ぱいになってゆく。
庸介はこれらの清らかさ、静けさに酔わされてしばしの間|恍惚《こうこつ》としていた。が、すぐにそのあとからある寂寥が徐々《しずしず》として彼に襲いかかって来た。山の頂には、彼一人のほか誰の姿も見られなかった。彼の思いは、ほかの何者でもない自分自身の上に突き進んで行った。最初に彼は自分の貧弱と、それから漠としたある空虚とを感じた。そしてそれはついに最後まで変わる事なく続いて行ったところのものであった。
「俺というこの人間はいったい何なのだ。何をしているのだ。嘗《か》つて何をしたか。そしてこれから先、何をしようとしているのか。……」
「俺が今、この岩蔭に身を隠したとする、そうしたら誰がこの俺を探しに来る?……」
「ここで今、俺がピストルかなんかで胸を貫いて死んだとする。そうすればどうなるというのだ。……房子が泣くであろう。母と父とが泣くであろう。それが何日続くか。……そしてそれはいったい、何の為めに泣くのか……」
「いったい、この俺という存在に何の意味があるのだ。何を意味しているのだ。ほんとに、この俺という存在にどういう価値があるのだ。……全実在と俺とはどういう点で結びつけられているのだ。……俺でないところの大きな実在が、今、かくのごとく明らかに見えている。」
こう云ったような事が、いろいろに縺《もつ》れ合
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