]光をあたりに投げていた。酔は気持ちよく醒めかけていた。彼はあたりを取片附けて改めて床の中へ入った。
 と、つい先刻見た一つの夢が朧《おぼ》ろげに彼の頭に思い出されて来るのであった。
 ……はじめ、お志保がそこに坐っていた、何か自分に訴える事でもあるような、憂わしげな顔付をしていた。と、庸介の母がそこへやって来て、何か厳しく彼女を責め初めた。その調子は非常に熱してはいるが、ひどくあたりを憚《はばか》っているような所が認められた。母の口から時折彼の名前が呼ばれた……やがて、どうしたのか急にお志保はしくしくと泣き出した。と、それに続いて庸介の母も声を出して泣き伏した……
 その朝は、庸介はいつもと同じ時刻に起き出で、いつもと同じように家の人達といっしょに朝の食事をした。

     九

 川原地に繁っている尾花に穂が出た。それを遠くから眺めると、秋の白い光を受けてそれが雲母《うんも》のように光った。銀色に、淡紅色に、薄紫色にいろいろになって波うった。
 十月のある晴れた朝、庸介は、すぐ家の前に近く見えているG山へ登ろうと思って家を出た。二里とは離れていなかった。それは、国境の山々がちょうどもう終ろうとして平原の中へ岬のように突き出している小山脈の一峰で、高さは云うほどの事もなかった。それに頂上まで大幅の立派な道がついていた。松や杉の林に富んだ、美しい愛らしい小山であった。その麓には温泉場などもあり、この地方の農民が春や秋の休み日に、よく三々五々打連れて蕨《わらび》や栗を採りに登る山であった。
 彼はただ何という事もなしに、高い処から遠く眺めてみたいというような願から、ふと[#「ふと」に傍点]思いたったのであった。前の△△川を舟で渡って向う岸につくと、堤防に添うて一つの郡道へと出た。それはそこからかのG山の麓を目がけてそこへ一直線に導いてゆくような道であった。道の右、左には田や畑が限りもなく続いていた。穀物はすでに熟《みの》りきって、今にも刈り取られるのを待っているように見えた。田では早稲《わせ》は刈り終られ、今や中手の刈り入れで百姓は忙しそうに見えた。田の中で鎌の刃を白くきらきらと光らしている人、刈り取られた稲を乾すために畔《くろ》の並木に懸けている人、それを運ぶ人――年寄も、若者も、女も子供もみんな一生懸命になって、まるで駈け歩くようにして働いている。一方には大豆、黍《きび》などが収穫されつつあった。畑の中に長々と両足を投げ出して一休みしている人々もあった。太い煙管《きせる》ですぱすぱ[#「すぱすぱ」に傍点]烟《けむり》をふいている人などもあった。そうかと思うと、二町ほども距《へだた》った所から、まるで風のような荒い声で、何か面白そうにその老爺に話しかけている者などもあった。空には赤とんぼの群がちらちら[#「ちらちら」に傍点]飛んでいた。農夫等の仕事は、彼にはいかにも楽しそうに見られた。そこには適度の暖かさを持った日光と、爽やかな清新な外気とがある。健康な肉体がその中で、その右、左、前、後へと、いとも安々と動いている。いかにも滑らかに。何の滞りもなく。――それは決して労働と呼ぶ事ができないように思われた。と云うよりは、むしろそれは慰みであり、一種の遊び事ででもあるかのようにさえ見做《みな》されたのである。
 何事に煩《わずら》わされるという事もないだろう。むろんこの瞬間に何を憤り誰を怨《うら》み、また誰から怨まれるという事があり得よう。そして一日の仕事を終った時には、疲れてまったくの無心になって空腹を感じて家路を急ぐのである。それは夕餉《ゆうげ》と睡眠とだけしかない。そして夜が明けて目を覚ました時、再び昨日と同じように一家打揃うて野に出て来るであろう。……それだもの彼等にとって何で国家の考などが必要であろう。何の思想が必要であろう。庸介にはこんなふうにも思われるのであった。それを、
「百姓は土の奴隷だ。」などと云う者があるとすれば、それはまるで見方を違えているというものだ。それはまるで別の世界から覗いて云った言葉で、彼等農夫自身にとってそれが何の意味でもありやしない。こんなふうにも思われるのであった。
 山の頂《いただき》は岩になっていて、このあたりには木がまるっきり繁っていない、で、展望が非常によかった。△△川がすぐ目の下で白くうねうね[#「うねうね」に傍点]と流れている。そこに白帆が列をなして幾つともなく通っている。橋の上をゆく人力車までが見える。今、通って来た耕原の中の人々がここから呼べば応じそうに近く見えた。遙か遠くに日本海が白く光って見えた。そこを航海している汽船や帆前船やが白い、黒い点となって見えた。そしてその向うには佐渡の山々が淡く浮いている。
 やや左手に独立した小山脈の一帯が青く見えてるほか、数十里という耕原
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