が、一時に長く鳴り出す。平安の夕べを讃美するように、またこの平安の耕原を祝福するかのように、あとを曳いて遠く物静かに響きわたる。……
「俺は、もう何にも云うまい。」こう、庸介は心に深くきめた。
「俺が、彼等に何をしてやる事ができるのだ、彼等は俺に何も望んでいるのではない。そしてまた、自分から云ってみても、彼等をみだりに乱したりする必要が何であろう。……飛ぶ鳥をして飛ぶ鳥の歌を唄わしめるがいい、野の草をして野の花を咲かしめるがいいのだ。何者がそれを妨げたり、それに手入を加えたりする事がいろう。……俺が今、どのような思想を持ち、どのような人生観を抱いていたからと云って、それはみんな俺一人のことだ。むろん、俺はそれを何者からも自由にさして置いて貰いたい。その代り、俺もまた、俺の思想、人生観のために他人をとやこう[#「とやこう」に傍点]しようとはしまい。通じ合い、融け合うものなら、おのずからにして通じ、おのずからにして融け合うであろう。我々はそれを待つほかないのだ。そうだ。自分が偉大になり、自分が成就《じょうじゅ》するのゆえをもって他を騒がし、他をそこねたくはないものだ。――例えば善悪のような場合にしても、悪を滅さなければ善がなり立たないように考えるのは誤ではあるまいか。善の生長、善の存立のために強《あなが》ちに悪を圧し、悪と戦わねばならぬような善なら、そんな善なら俺は賛成できない。……泥海の底で、真珠が自分の光を放っていたってそれでもいい訳ではないか。」こう思うのであった。
 その日は、初秋の風が朝から家のぐるりをさらさら[#「さらさら」に傍点]と廻っていた。家の前の大きな竹林が、ちょうど、寄せてはかえす海の波のような音を立ててざわめいて[#「ざわめいて」に傍点]いた。何となく遠い事がそこはか[#「そこはか」に傍点]となく忍び出されるような夜であった。この六年の間、いろいろに結びつき、また離れ合った彼、彼女、彼等、彼女等――都恋しい思いがたまらなく彼の胸に迫って来るのであった。
 彼は押入れの戸をあけて、一本の葡萄酒《ぶどうしゅ》の瓶をとり出した。そして、それを台のついた小さなグラスに汲んでちびりちびり[#「ちびりちびり」に傍点]とやり初めた。酔《よい》が快く廻って行った。
 母屋《おもや》の方はもうすっかり[#「すっかり」に傍点]燈火《あかり》が消えて、家の人達は誰もかも深い睡りに入っていた。屋外には冷やかな夜が、空にきらめく数限りもない星々を静かにはぐくん[#「はぐくん」に傍点]でいた。
「何という淋しい酔であろう。」
 と、彼は口に出して自分自身に云った。しかし、何故かもっと深く酔って行ってみたかった。そこで、彼は再び立ち上って戸棚の中から、今度はウイスキーの四角な瓶をとり出して来た。肴《さかな》は? と思ったが何もあるはずがないので、机の上に置いてあった干葡萄の皿を引きよせて、それを摘《つま》んでぽつりぽつり[#「ぽつりぽつり」に傍点]やり出した。
 おいおいに目がちらついて来た。ランプの光線の赤いのが、たちまちにいっそう際立って来たように感じた。障子の桟が不規則に幽《かす》かに揺ぎ出した。これ等はすべて彼には愉快であった。……と彼の目の前に女の顔が一つぷい[#「ぷい」に傍点]と浮び出して来た。「房子だ。」と思う、とすぐにまたぷいと消えて行った。と思うとまた現われて来た。「おや、お志保だ。」かと思う間に今度はそれが母の顔に変った。そんな事を幾度か繰り返した。と、最後に現れたお志保の顔が、彼の目をじーっと視詰《みつ》めてにっこり[#「にっこり」に傍点]笑った。それを見ると、庸介もおもわず同じようににっこり[#「にっこり」に傍点]とした。そして、
「十七だというが、年の割には大人だ。――いや、あれはまだ子供だ。おそらくは何にも知っていはしない。」こんな事を囁いた。
 目をつぶって、もう一度お志保の顔を求めた。が、どうしてもそれはもはや見られなかった。グラスを取り上げて一杯のみほして、びりびり[#「びりびり」に傍点]する唇をぷーっと吹いた。
「否、俺は遠からず上京するであろう。そしてそれっきり、再びこの土地へは帰って来ないかも知れない。そうだとも、俺は遠からずこの地を出発《た》とう。数週ののち、しからざれば数カ月の後、……そして今度こそは本当に勇敢に餓死と戦うのだ。……万物はみんなそうしているのだ。」かう云って、また盃を重ねて行った。……
 夜のしらしら[#「しらしら」に傍点]と明ける頃になって、ふと[#「ふと」に傍点]目を覚ました彼は蒲団ものべずに着物を着たままそこに酔いつぶれていた自分を見出した。ウイスキーの瓶が空になって転がっていた。机の上には、点《つ》けっぱなしにされていたランプが疲れ果てた、ぼやけた[#「ぼやけた」に傍点
前へ 次へ
全21ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 泰三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング