密でもあって、そしてそれは自分達には打明けられないような種類の事で、それがために一人で思い悩んでいるのに相違ないと思うた。それに対して房子は、
「そんな事ではないと思うわ。……兄さんには、お友達から来る手紙が何よりの楽みなんですよ。それで、それが待ち遠でならないんでしょう。きっと。……だから、兄さんの方からもよく手紙をお出しになることよ。」
事もなげに、こんなふうに云うのであった。
母は、また、東京に「おんな」でもあるのではないか、とも思うのであった。しかし、そんな事はもちろん自分の胸だけのはなしで、口に出して云うような事は誰にもしなかった。それから、もう一つ、彼女が庸介について不審にも思い、かつははがゆく[#「はがゆく」に傍点]不満でならなかったのは、彼が、もうそろそろ何か、例えば読書のような事なり、またその他の何なりをやり出してもいいのだ。という事であった。この第二の事では、彼の父もまたまったく同感であった。しかし、今はまだ、そんな事を彼に云う時ではないと思うていた。
ある日、庸介が自分の部屋の涼しい縁側の所へ籐《とう》で組んだ寝椅子を持ち出して、その上で午睡に陥っていた時、郵便配達夫が一枚の端書《はがき》を玄関の中へ投げ込んで行った。房子がそれを受取った。それは庸介へあてたので差出人の名前の代りに、兄が下宿していた旅舎の商用のゴム印が捺《お》されてあった。こういう種類のものは彼女自身にはちょっと珍らしく、またちょっと異様にも感じられたので、裏を反えして読むともなく二三行目を通してみた。と、急に彼女は、何か怖い物をでも見たように、はっ[#「はっ」に傍点]と驚いて目を他に転じた。が、次ぎの瞬間に、今度は非常に熱心に、一字一字丁寧に読んで行った。それには次のような意味の事が書かれてあった。「いつもながら、不得要領なお返事ばかりで当方の迷惑は一通りではない。こちらを発《た》つ時にはあれほど堅い約束をして置きながら何と云うことだ。もし一両日が間に御送金なくばもはやあなたとは談《はな》しはしない。例の証文の件を親御の方へ照会して処決して貰うようにするから。左様承知ありたい。草々頓首。」多分に憤りの調子を含んだ条文で細かく書き続けられてあった。
房子は三度目に読み返して行った時に、もう堪えられないような気がして来た。何ぼ何だって、これは何という乱暴な物の書き方だ! と思った。誰かが彼女自身の面前で、彼女自身を厳しく責めつけ、辱《はず》かしめているように感じた。胸の動悸がおのずから高まって来た。顔色が蒼く変り、手がふるえて来た。やがて両方の目へ涙さえ浮んで来るのであった。何はともあれ、お母さんにこの端書を見せねばならぬと彼女は思うた。そして一刻も早くこの忌《いま》わしい事件を根絶してしまわねばならぬと思うた。……しかしそんな事を自分勝手にやっては兄さんに悪るくはあるまいかとも思うた。咄嗟《とっさ》の間にいろいろと迷うた。……と、今度はこの端書がここへ来るまでに多くの人の目に露《さら》された事を思うた。大勢の人がすでにこの事を知ったような気がされた。そして、むろん、さっきこれを配達して来たあの男もこれを読んだに相違ないと思った。――こうなっては、もう今は一刻も猶予《ゆうよ》していられる時でないと、深く決心して彼女は急いで母の居間へやって来た。そして黙ってその端書を母の前へつき出した。
母は、それを受取って一通りずーっと目を通すと、何も云わずにそれを自分の針箱の中へ納めて、そのあとですぐにまた、針仕事に取りかかりそうにした。別に驚いた様子もなかった。まるで出入の呉服屋から来た端書を見た時くらいの表情しか見ることができなかった。
房子は、母の心をはかりかねて、いかにも不安そうに、
「お母さん!」こう呼びかけた。
「はい。」
母の声は、いつもに変るところなく少しの濁りもなかった。
「どうなるのですの?」
「そんなに気をもむ[#「もむ」に傍点]事なんか少《ち》っとも無いんですよ。お前はもういいんだから、あっちへ行っておいで。」
「でも、わたし……。」
「どうしたの? お前、母さんがいいようにして上げるのだから、お前なんかが心配などするのではありませんよ。ね、房子。――それから、兄さんが目を覚ましたら此室《ここ》へ来てくれるようにって云っておくれ。誰にも知れないように、そっと云うのですよ。」
房子は、これでやっと安心して母のそばを離れた。
庸介が、母の前へ坐った時、母はすぐに口を開いた。何の修飾するところもなく、きわめて直接に、
「お前は、何か至急にお金の入用な事がおありなのでしょう。……それはいくらあれば良いのだか云いなさい。」こう云うのであった。この簡潔な母の一言は彼を動かすに十分であった。そして、そこには何等の説明もなしに彼
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