にして三月が来た。麗《うら》らかに晴れた日が続いた。長く固まり附いていた根雪が溶けて、その雪汁がちょろちょろ[#「ちょろちょろ」に傍点]と方々で流れた。黒い土の肌が久し振りに現われた。そこにはいつの間にかすでに若草が青々と芽を出していた。長々湿っていた樹木の皮からほかほか[#「ほかほか」に傍点]と水蒸気がたち上った。どこかの隅から、かの四月や五月やが人知れずにこにこ[#「にこにこ」に傍点]して覗いているような気勢《けはい》さえ感ぜられるのであった。
 房子のその後の経過はことのほか良好であった。老医師の家では彼女の退院の日を指折り数えて待っていた。帰って来たらしばらく温泉場へでもやって置いたら良かろう。そしてそれに附き添うてゆくのは庸介が良かろう、と、そんな事まで相談されていた。
 ある日の午後、庸介が、自分の部屋でしきりに何か書き物をしているところへ、そーっとお志保が入って来た。彼女のようすにはどこか落ち附かないおどおど[#「おどおど」に傍点]した処があった。彼の側近くへ坐ったまま伏目になって黙っていた。そして時々|幽《かす》かな吐息を洩らしたりした。庸介は、お母さんにでも気づかれたのではないか、そして何か云われたのではないか、と思って咄嗟《とっさ》の間に酷《ひど》く心がまごついた。が、そんな素振りは見せずに、膝の上へきちん[#「きちん」に傍点]と組んでいたお志保の手を執《と》って軽くそれを握ってやった。彼女は素直に彼のするがままにさせていたが、やはり黙り込んでいた。たまり兼ねて彼が、
「どうかしたのかい?」と、問うた時に彼女はようやく眼をあげて彼を見た。その眼は平常に似ずからから[#「からから」に傍点]に乾き切っていた。お志保は何か云おうとしたが、急に顔を真紅にした。と、たちまちのうちにそれはまた真蒼《まっさお》に変って行った。そして何故か物も言わずに男の膝の上へ顔を伏せるのであった。庸介は女がふびん[#「ふびん」に傍点]に思われてならなかった。で、愍《いた》わってやるつもりで背中の上へ自分の手を乗せた。すると、その瞬間、彼は、ごそごそ[#「ごそごそ」に傍点]した木綿着物の下にむっちり[#「むっちり」に傍点]した丸みを持った、弾力性に富んだ肉体の触感を覚えた。髪の毛の匂いと、それからどこから来るのだか解《わ》からない、ある不思議な女の香気が彼にもつれ掛って来た。
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