い事です。それは泥棒よりも悪いんです。人殺しよりも悪うございます。そうですとも確かに。……人殺しよりも悪うございますとも。……世界中で一番悪るい事です。一人残らず縛り上げてしまうがいいのですわ。」
「そう一図にお前のように云い初めたって……。」
 両親は娘をなだめようとしたが、
「人殺しの方がどれほどまし[#「まし」に傍点]だか知れないわ、……こんな事を何ともできないくらいなら巡査なんか無い方がいいんだわ。ほんとに、……何といういまいま[#「いまいま」に傍点]しい、何という憎々しい……」
 房子はどうしても黙ってはいなかった。
 昼間はついうっかり[#「うっかり」に傍点]忘れているが、夜になると、彼女はいつも深く部屋の中にとじ籠《こも》って、そして烈しい憤りに心をいらいらさせていた。恐ろしい大蛇のような者から附け覘《ねら》われてでもいるかのように気味悪るがって、矢も盾《たて》もなく不安でたまらなかった。
「そんな者の手にほんのちょっとでも触られる位なら、その前に死んだ方がましだ!」こんなに思った。
 ……一人の大きな荒くれた男と悪戦苦闘を続けているような夢をよく見た。……短刀をもってとうとう[#「とうとう」に傍点]敵者《あいて》を突き殺してその上になおも、黒い毛のもじゃもじゃ[#「もじゃもじゃ」に傍点]生えたその胸のあたりを飽くまでも切りつけていたような夢から覚めて、びっしょり[#「びっしょり」に傍点]身体中に流れている汗を拭うために起き出た事さえ一二度あった。
 房子は、とうとう[#「とうとう」に傍点]庸介に迫って響察署へ匿名《とくめい》の手紙を書かせた。しかし、何日まで待っても、むろん何の甲斐もなかった。
 そのうちに何時か房子も馴れて来たのでか、次第に初めのような気のもみようもしなくなった。
 幾カ月か経った。
 ある夕の事、それは日が暮れて間もなくであった。家の裏手の方で、急に房子のけたたましい悲鳴が聞かれた。「それ、何事が起った!」というので時を移さず家の者は一人残らず履物を穿かずに飛び出して行った。
 人々はどんなにか吃驚《びっくり》した事であったろう。房子は、物干のところで、まるで死体のようになって地べたへ打《ぶ》っ倒れていた。慌てて水を吹きかけるやら、気つけ[#「気つけ」に傍点]を飲ませるやらしてようやくにして蘇生させた。家の中へ連れ込んで来てからも
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