。」と云ったような一種もどかしい[#「もどかしい」に傍点]ような一種くすぐったい[#「くすぐったい」に傍点]ような心持ちがおどんで[#「おどんで」に傍点]いた。
「自分には、ほんとに思い思われるという仲になった人が一人も無かった。――この事は自分のこれまでの生涯にとって何よりもの大きな不足に相違ない。それが欠けていたばっかりに、俺のこれまでは無かったも同じようなものになって仕舞ったのだ、否、ほんとにそれよりも悪いのだ。……」
自叙伝は、ほんの少し書き出されただけで放《ほう》ってあった。あとを続けようとして机に向っても心はいつもあらぬ事にのみそれて行った。ある時、ほとんど二時間近くも一字も書かずにぼんやり考え込んでいたのち、とうとう[#「とうとう」に傍点]次のような事を原稿紙に書き出していた自分を見出したのであった。
[#ここから2字下げ]
おゝ、美《うるわ》しき黄昏《たそがれ》よ。
お前は、私に何をしようとしているのだ。
それでなくとも、長い長い
悩ましさのために、
疲れ果てている私の魂は、
どんな小さなかどわかし[#「かどわかし」に傍点]にも
従うだろうものを。
………………………………
[#ここで字下げ終わり]
庸介は、自分の思いがいつからとはなしにお志保の方へ引き寄せられていたのを知っていた。それにしても、かほどまでに彼女の事が自分の心に深く喰い入っていようとは知らなかった。彼女に対してしようとしている自分のある企てが、かくまで執《しゅ》ねく自分を掻き乱し、悩ましていようとは思わなかった。
十一
裏門に近い所に一つの粗末な小屋があった。そこへ藁がたくさんに入れられてあった。それからその一部分がちょっと[#「ちょっと」に傍点]片附いていて、そこへ、一年中ついぞ使う事のないような雑具が納《しま》いこまれてあった。めった[#「めった」に傍点]に用もないので常には家の人達からまるで[#「まるで」に傍点]見捨てられているような所であった。入口が横に附いていて、そこへ出入りするに、その姿を他人から見られまいとする位の事はきわめて容易であった。それにその裏手が、梨《なし》だの桃だのの苗木が植えつけられてあり、なおそれに続いて荒れた雑木林があって、そこには食べられる小さな茸《きのこ》があったりした。そんな工合で、その辺から誰かがひょっこり[#「ひょっこり」
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