って繰り返えされて行った。
やがて、彼の心が、幽《かす》かに、どこか底の方で叫び出した。
「俺は真に零《ゼロ》にも劣っている、俺は無にも値しないであろう。」
彼は泣きたくも泣き出されないような思いを抱きながら、黙然《もくねん》として山を下りて来た。
十
何か為《し》よう。みんなが何かしらしている。何にもしないでいるのは自分だけだ。自分も何事をか企てねばならぬ。何事をか初めねばならぬ。今日、すぐ今からでもそれに取掛らなければならぬ。そうしないではいられないような心持ちが続いた。
「しかし、その前に俺は俺自身が何であるかを知らねばならぬ。そして俺に何ができるかを知らねばならぬ。そしてその後に傍目《わきめ》もふらず突進しよう。」庸介はこう考えた。
「一生の仕事にとりかかるのだ! そんなに慌ててはいけない。前途を測るに当って、一通り過去を振り返ってみるのも強《あなが》ちに無益な業《わざ》ではないかも知れない。自分がこれまでに実際何をしたか、何をなし得たか、またどんな事の方へ主として傾いて行ったであろうかを明らかに思い起してみよう……そうだ。俺は今のこの静かな境遇を利用して自分の自叙伝を書いてみよう。あるいはその中に、自分の前途の暗示が見られないとも限らない。」
で、彼は、その日から、できるだけ詳細に自分の過ぎし時代のさまざまな事柄に探り入る事につとめた。そして思い出すがままにそれを一々原稿紙に書きつけた。時代がいろいろ[#「いろいろ」に傍点]に前後になった。彼は、最初はただ材料を集めるだけの考で、そんな事には関係なくどんどん[#「どんどん」に傍点]仕事を運んで行った。一つの端緒から手繰《たぐ》り手繰りしてゆくうちにそれからそれと五日間も書き続けてまだその項が終らないような事もあった。おのおのの項が終るごとにそれを一つに纒めて紙捻《こより》で綴じた。三週間もたたないうちにその原稿は積もり積って三四百枚にもなっていた。堆《うずたか》いその重《かさな》りを眺めてみずから驚嘆した。倦《う》む事なくなお熱心に続けて行った。
だいぶ冷え冷えして来た。ある朝、真白ろに霜がおりた。村雨《むらさめ》の時節がやって来た。雲が小暗《おぐら》く流れて来たかと思うと少しの堪《こら》えもなくすぐにばらばら[#「ばらばら」に傍点]と降りこぼれた。かと思うと跡から霽《は》れて行った
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