して横になったりしたのであった。
 夏の太陽が赤々と燃えて、野の末の遠い山の蔭へ落ちかけた頃になって、宿の女中が胡散臭《うさんく》さそうに、
「あの、……お客様はお泊りでござんすのかね。」
 と云った時にようやく立ち上って、そこを発《た》つ仕度に取掛った。そして彼は口の内で苦々しく独言《ひとりご》った。
「お客様はお泊りでござんすのかね、だとさ。これはいったい、何と云うこった。俺は六年ぶりで自分の郷里へ帰って来たんだよ。自分の生れた家が、ついここから一里半しかない所にあるんじゃないか、そうさ。……そして家の者がみんなで自分を待っていてくれているんじゃないか。……それだのにこの人はそこへ明るいうちは乗り込めないんだとさ。誰がそんな事を本当にする者があるものか。……」
 それは、彼が今年三十歳の大人であったという理由からであった。――そうではない。そんなはずのある道理がどこに在るものか。否、それではこう言ってみよう。もし、彼が今十七歳の少年であったとしたら、たといどんな場合だとしても、何でそんな真似をしたであろう。
 彼は二十三歳の時、東京のある専門学校を卒業した。その後、一年半の間、就職難のために父の補助を受けて、それから自活の途に入った。思わしい事もなかったにかかわらずとにかく押しも押されもしない一個の男として、大勢の他人に混《ま》じって独立して来た。しかるに、彼の思想がようやく根を生じ次第に生長してゆくにつれて、世間が追々狭くなってゆくのを彼自身に感じた。思わざる打撃が徐々に迫って来た。三度目の解雇の時、その雑誌社を出て家へ帰る電車の中で、「みんなが、どうも勘違いをしているのだ。」こう思った。彼は自分の友に向って、
「なあに、窮迫がどれほどひどくなったって、この俺を滅《ほろ》ぼせるものではない。俺は、泥まみれになったって俺の道を歩き続けるのだ。」こう語った。
 しかし、世間の事はきわめて簡単で明瞭であった。下宿の払いが滞《とどこお》り滞りして、「もう、どうも。」と云う所まで来た時、持ち物をすべて取り上げられてそこを突き出されるのを彼は拒《こば》む訳にはゆかなかった。
「こうなっては、いよいよしかたがない、道普請《みちぶしん》の土方にでもなるほかに道はないだろう。」実際こう彼には思われたのであった。
 郷里の父は、とうとう彼に手紙を与えた。
「身体でも丈夫なら、それ
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