は知っているはずはなかった。)が慎《つつ》ましやかに坐って自分を仰ぎ見ているのに気がつくと、彼は「そうだった。」と思った。「どなたさまでいらっしゃいますか。……どちらからお出になりましたので?」少女は黙ってはいるが、その顔の表情が確かにそう云っているのが解かった。彼はあわてて、少しまご附いて、意味もなく、
「あ、私は……。」こう云った。が、ひどく手持不沙汰なのでそのまゝ口を噤《つぐ》んでしまった。ちょうどその時、
「まあ、兄さんだわ。……兄さん!……ほら、やっぱり妾《わたし》が当ってよ。」こう云って妹が元気よく走り出して来てくれなかったら、彼は、飛んでもない、重苦しい翻訳劇の白《せりふ》のような調子で、不恰好《ぶかっこう》な挨拶を云い出したかも知れなかったのである。
 祖母、母、今年十二歳になる姪《めい》の律子などが珍らしがって我慢なくそこへどやどやとやって来た。
「どんなに待ったか知れなかったわ。むろん、先月のうちだとばっかり思っていたのよ。」
 荷物を内へ運び入れながら、妹は無邪気な、馴々しい調子で云った。これが不思議にも堪え難い窮屈さから救い出してくれた。そしてそれからずーッと数時間の間、安易な、日常茶飯の気分が保たれた。

     二

 父は往診に出ていて、まだ帰宅していなかった。
 庸介は暑苦しいので、着て来た洋服をすぐに浴衣《ゆかた》に替えた。そして久し振りの挨拶が一通りすむと、絵団扇《えうちわ》で襲いかかる蚊を追い払いながら、
「明るいうちに着きたいと思いましたが、汽車の時間をすっかり間違ってしまったので、それで………」こう云った。
 しかし、それは、全然、嘘であった。庸介を乗せた汽車はその日のお午少し過ぎた頃にこの家から一里半ほど距《へだた》った所にある淋しい、小さな停車場へ着いたのであった。そしてその時、彼は確かにそこへ下車したのであった。赤帽のいない駅なので、自分のお粗末な革鞄《トランク》をまるで引摺《ひきず》るようにして、空架橋の線路の向う側からこっち側へと昇って降りて来た。改札口を出ると、一人の車夫を探し出して来てそれに荷物を運ばせて、停車場前に列《なら》んでいる、汽車の待合所を兼ねた小さな旅舎《はたご》の一つへと上って行った。そしてそこでお茶を命じ、喰いたくもない食事を命じ、それからひどく疲れたから、などと云って、旅行用の空気枕を取り出
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