え去りはしなかった。この問題はまた父の前にも持ち出された。父は、娘の云う事を静かに聞き終ると、その最後のところへ封でもしてやるかのように、厳重な語調をもって、しかもいかにも慈愛の籠った声で、
「房子や、お前には何の不足しているところはないのだよ。たゞ、少しばかり身体が弱いだけだ。これとて気遣う事などは少しもない。これからは私達の側で、できるだけ身体を動かすような事をして、できるだけ日光に当るような工風《くふう》をして、そしてもう少し丈夫になってくれさえすればよいのだ。それですっかり良くなるのだよ。ね、房子や。そのほかの事は何もかも私達にまかせて置きさえすれば良いのだから。」こう云うのであった。
父は、彼女に、屋敷続きになっている一つの畑を与えた。それへ数種の果樹を植えてやった。苺《いちご》の苗を買ってやった。草花の種子や球根やをいろいろ遠い所からわざわざ取り寄せてやった。鍬《くわ》や、鎌や、バケツや、水桶や、如露《じょろ》や、そう云ったものを一式揃えて持たせた。……間もなく彼女はこの仕事(?)にかなり深い興味と趣味とを感じて来た。うっかり[#「うっかり」に傍点]しているとすぐに夥《おびただ》しく繁殖する、果樹につく天狗虫《てんぐむし》、赤虫、綿虫や、それから薔薇や他の草花やの茎にとかくつきたがる油虫やの類《たぐい》を見つけ次第に一一除《と》り去ってやった。それは、良い果実を収穫し、良い花を咲かせたいという考よりもむしろ、それ等の木や草やを愍《いた》わり愛する情のためからであった。房子は、今、朝顔の鉢を幾つとなく持っていた。竹や葭《よし》を綺麗に組み合わせて小さな小屋形のものを作り、それに朝顔を一ぱいに絡《から》ませたりしてあるのも、その園内に持っていた。
ある日の暮れ方、房子が、襷《たすき》がけになってそれ等の草木に一生懸命になって水を与えているところへ、庸介がやって来た。彼は、仕事の済むまで妹の邪魔をしまいと思って、入口の所で黙って立っていた。すると、すぐに房子がそれを見つけて、嬉しそうに走《か》け出して来て兄を中へ案内した。青々としたすべての葉が、今|灌《そそ》ぎかけられた水のためにいっそう生々と光沢を添えて、見るからに健康そうで幸福そうであった。煌々《きらきら》と光る露のダイヤモンドが、方々で幽《かす》かな音を立ててしきりに滴《したた》っていた。
二人は
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