劣な事だ!」と思った。「まるで会話の体をなしていないじゃないか。」とさえ思った。彼は、さっきから、今度自分がこうして帰って来たことについて、それから、先日、父の送ってくれた為替券のことについてそれとなく一言言い及びたいと思っていた。そうでないといつまでも中途半端な所に落ち着かないでいるようで、いかにも気が済まなかった。しかし父の方では、何の怪我もなくこうして彼が帰っている事であれば何も大して案じる事もなかった。今は、彼に、もう一度世の中へ勇ましく出発してゆくだけの勇気を得させるようにひたすら努めさえすれば良いのだと、こう思うているのであった。
彼がもじもじしているうちに、また、父の方から口を開いた。しかし、今度は今までよりもやや厳格の調子であった。とはいえ、やさしく、
「お前が帰って来てくれてちょうど良かったんだ。私は今、ある翻訳を初めているんだ。――なあに、同業者の間に出しているある雑誌から頼まれたのだ。――ところが、この頃は絶えて物を書いた事がないので文章がどうしてもうまくいかないのだ。それにはほとほと弱っている。……急ぐのではないが少し落附いたら、一つそれを読み良いように綴り合わして貰いたいと思っているんだがね。……」と、云った。
彼は、すぐ今日からでもお手伝しようと云い出した。それではとにかくその原稿を見せようから、という約束をして二人ともその応接間から外に出た。そこの戸口の所で二人は右と左とに別れた。
四
翌日の午後には夕立があった。それから二三日また一滴も降らなかった。その代りに夜は溢れるように露が何でもかんでもを潤《うる》おした。
庸介は家の中を、あっちの部屋、こっちの部屋とぶらぶら見舞って歩いた。いかにも興味なさそうにしながらも色々の物を一々じっと凝視《みつ》めては過ぎて行った。口を堅く閉じて一言も物を云わなかった。それからまた、庭へ出て行った、家のまわりをゆっくり巡《めぐ》った。裏手にある納屋《なや》や小屋類の戸を細目に開けて、薄暗い内部をそとから覗き込んだりした。しかしこれらの生活は彼にとって決して愉快なのではなかった。それと同じように、そうして彼にみまわれ、彼に凝視められるすべての物もまた決してそれを愉快には感じなかったであろう。それどころではなく、中には彼の視線に対して、明らかに醜い反感を示し、
「悲惨なる友よ。虚無の眼
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