なってしまわなければ……。」こうみずからそれを打ち消した。そして、
「兄さん! 妾、もうこれですっかりだわ。この外にはもう何んにも云う事なんかないわ。――あるかも知れないが思い出せないわ。」と云って、少し羞《はず》かしそうに、しかしいかにも満足そうににっこりした。
 その日の午過《ひるす》ぎ頃、庸介の父は、その日の最後の患者であった中年の百姓女の右の乳の下の大きな腫物《はれもの》を切開して、その跡を助手と看護婦とが二人がかりで繃帯《ほうたい》をなし終えるのを見ると、急いで外科室を出て来た。そして白い手術服を着けたままで、医院の方の応接室で庸介に遇った。
 久しぶりの対面なので、おたがいに何と云っていいか適当の言葉を見出せなかった。
「まあ、そこへお掛け!」
 こう云って、父は、露出《むきだ》しにしてある手を挙げて卓《テーブル》の側《わき》の一つの椅子を指差した。そのようすは年に似合わずいかにも元気に見なされた。老医師はあらかじめ自分でそれと知っていた。そしてわざとこの科《しぐさ》をこの場合に用いたのであった。
 庸介は心持首を垂れて、重く沈黙していた。それに引替えて父の方は、できるだけそうした気分を打ち破ろうと努めていた。で、次のような事を云い出した。
「道中はどうだったな。信州の山々は今はちょうど青々と茂り合っていて、さぞ気持がいい事だったろう。……新聞でみると浅間山がこの頃だいぶ穏《おだやか》でないように書いてあるが、よっぽどさかんに煙をふき出しているかね。」
「そうですね。私が通った時には、ちょうど煙が見えませんでしたが、汽車へ乗り込んで来たその土地の人の話では、何でもひどい時には上田の町あたりまでも灰が降って来るという事ですね。それがために今年はあの地方の養蚕《ようさん》がまるで駄目だという事です。」
「そうか。」
「桑の葉が灰だらけになってしまうのだそうです。」
「なるほど……。」
 庸介は、限りなく空虚な感じがした。まるで自分自身の口で物を云っているのではないようにさえ思われた。自分のそばにもう一人、誰か他の人がいて何かしゃべっているとしか思われなかった。
「何しろ、十五六時間も汽車に乗り通したんでは、さぞ疲れた事だろう。」
「え、おかげさまで、今朝はとんだ寝坊をしてしまいました。つい、今しがた起きたばかりなんです。」
「はゝゝゝ」
 庸介は「何という拙
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