》のよくない鶏《とり》とたゞで取替へてやることを申出た。なほ、近所の百姓たちに簡便に出来る蔬菜《そさい》の速成栽培のやりかたを教へたり、子供のある家では子供の内職として家鴨《あひる》を飼ふやうにといふやうな事を奨励してあるいたりした。
 欣之介は、自分の農園の中央部に小さな洋風の小舎《こや》を建てて、そこでたつた一人で寝起してゐた。その建物は八畳ばかりの広さの部屋と、それに隣《とな》つた同じ広さの土間との二つの部分から成立つてゐた。出入口は土間の方についてゐた。土間には、こま/\した農具や泥《どろ》のついた彼の仕事衣《しごとぎ》やが一方の壁に立かけたりぶら[#「ぶら」に傍点]下げたりしてあつた。一つの隅に囲炉裏《ゐろり》が設けられ、それを取まいて三四脚の粗末な椅子《いす》が置かれてあつた。冬の夜永《よなが》などには、よく三四人の青年が其処《そこ》へ集つて来て、粗柔《そだ》を焚《た》きながらいつまでも/\語り続けた。それ等の客のなかに、一人の年若い小学教師があつた。彼は、いつも誰かの詩集を懐《ふところ》にしてゐて、よく文学や恋愛のことを熱のある口調で語つた。
「人間は(心)のほかの何物をも所持しようとしてはならない。」かういふのが彼のきまり文句であつた。
「人々がみんなさういふ考の上に生きてゆければ、その上に何の革命も必要としない。」
 定連《ぢやうれん》の一人に、病気で都会の学校から帰つてゐる大学生があつた。彼は一種の瞑想家《めいさうか》で、「自分には、この世に、生れたり死んだりするものの外に何か永劫《えいごふ》に変らない、少しの揺《ゆる》ぎすらない或《あ》る理法と云つたやうなものが存在してゐるやうな気がしてならない。」などと、静かな調子で語り出すのが彼の癖であつた。
 欣之介は、彼自身、自分の考へてゐることを他の人達のやうに口に出して話すことをあまり好まなかつたが、さうした人達のさうした話を凝《ぢ》つと聞いてゐるのが愉快で堪《たま》らなかつた。
 彼の小舎の外側には木蔦《きづた》が一ぱいに纏《まと》ひつかせてあつた。春先きから夏へかけて美しい柔かな葉が繁《しげ》つて、柱から羽目から屋根から凡《すべ》てを、まるで緑色の天驚絨《ビロウド》の夜具を頭からすつぽり[#「すつぽり」に傍点]ひつかぶつたやうに掩《おほ》ひ隠してしまつた。彼は又、その家の周囲《まはり》に薫《かん》ばしい匂《にほ》ひを放ついろいろの草花を植えた。彼の部屋の、書卓《テーブル》を据《す》ゑてある窓へ、葡萄棚《ぶだうだな》の葉蔭を洩《も》れる月の光がちら/\と射《さ》し込んだ。たつた一人で過す多くの夜を、その窓に倚《もた》れて、彼は幾度《いくたび》か/\自分の仕事、自分の将来についていろ/\に思ひを馳《はし》らせた。そんな時、いつも彼の心の中《うち》には抑へきれない憧憬《しようけい》が波うつてゐた。彼の所謂《いはゆる》「幸福な幻影」が彼の目の前に顕々《あり/\》と描き出《いだ》された。――最も合理的に耕作された田畑、緑の樹蔭《こかげ》に掩はれた村、肥えて嬉々《きゝ》として戯れてゐる牧獣や家禽《かきん》の群、薫ばしい草花に包まれた家屋、清潔に斉然《きちん》と整理された納屋や倉、……甦《よみがへ》つた農業! 愚昧《ぐまい》な怠慢な奴隷達から開放された、自由な、生々とした土地! そこでは凡てが新鮮で、気持よく、そして、これまでのやうな乱雑や、下劣や、廃頽《はいたい》やが何処《どこ》の隅にも見ることが出来ない。……
「僕の力できつと[#「きつと」に傍点]さうならせて見せる!」
 かう思ふと、彼は、いつもきまつて、何ものかに祈祷《きとう》を捧《さゝ》げたいやうな、涙ぐましい気持ちになるのであつた。

       三

 欣之介が予定してあつた春に、園《その》の林檎が花をつけた。その美しい淡紅色の花が、嘗《か》つて見たことのない村人の眼を驚ろかした。小作人のあるものは、「ひよつとしたら、若旦那の計画《もくろみ》がうまく成功するやうな事になるのではないか。」などと、愚かな心配をしながら囁《さゝや》き合つたりした。
 微風《そよかぜ》が日毎《ひごと》林檎林を軽く吹いて通つた。欣之介はその中で何かの仕事をしながら、「眼には見えないが花粉がうまい工合に吹き送られてゐるんだ!」と思ひ、人知れず心の中で微笑した。
「いよ/\これからだ。」
 が、丁度その頃から、彼と彼の父との間に、金銭上の事で何かごたごた[#「ごたごた」に傍点]した不機嫌な会話が屡々《しば/\》取交《とりか》はされるやうになつた。
 父は、初めから忰《せがれ》の企画《もくろみ》を賛成してはゐなかつた。忰が生涯を捧げようとまでしてゐる理想に対しても、たゞ、ほんの若い者の気紛《きまぐ》れ位にしか考えてゐなかつた。父は二言目
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