》のよくない鶏《とり》とたゞで取替へてやることを申出た。なほ、近所の百姓たちに簡便に出来る蔬菜《そさい》の速成栽培のやりかたを教へたり、子供のある家では子供の内職として家鴨《あひる》を飼ふやうにといふやうな事を奨励してあるいたりした。
 欣之介は、自分の農園の中央部に小さな洋風の小舎《こや》を建てて、そこでたつた一人で寝起してゐた。その建物は八畳ばかりの広さの部屋と、それに隣《とな》つた同じ広さの土間との二つの部分から成立つてゐた。出入口は土間の方についてゐた。土間には、こま/\した農具や泥《どろ》のついた彼の仕事衣《しごとぎ》やが一方の壁に立かけたりぶら[#「ぶら」に傍点]下げたりしてあつた。一つの隅に囲炉裏《ゐろり》が設けられ、それを取まいて三四脚の粗末な椅子《いす》が置かれてあつた。冬の夜永《よなが》などには、よく三四人の青年が其処《そこ》へ集つて来て、粗柔《そだ》を焚《た》きながらいつまでも/\語り続けた。それ等の客のなかに、一人の年若い小学教師があつた。彼は、いつも誰かの詩集を懐《ふところ》にしてゐて、よく文学や恋愛のことを熱のある口調で語つた。
「人間は(心)のほかの何物をも所持しようとしてはならない。」かういふのが彼のきまり文句であつた。
「人々がみんなさういふ考の上に生きてゆければ、その上に何の革命も必要としない。」
 定連《ぢやうれん》の一人に、病気で都会の学校から帰つてゐる大学生があつた。彼は一種の瞑想家《めいさうか》で、「自分には、この世に、生れたり死んだりするものの外に何か永劫《えいごふ》に変らない、少しの揺《ゆる》ぎすらない或《あ》る理法と云つたやうなものが存在してゐるやうな気がしてならない。」などと、静かな調子で語り出すのが彼の癖であつた。
 欣之介は、彼自身、自分の考へてゐることを他の人達のやうに口に出して話すことをあまり好まなかつたが、さうした人達のさうした話を凝《ぢ》つと聞いてゐるのが愉快で堪《たま》らなかつた。
 彼の小舎の外側には木蔦《きづた》が一ぱいに纏《まと》ひつかせてあつた。春先きから夏へかけて美しい柔かな葉が繁《しげ》つて、柱から羽目から屋根から凡《すべ》てを、まるで緑色の天驚絨《ビロウド》の夜具を頭からすつぽり[#「すつぽり」に傍点]ひつかぶつたやうに掩《おほ》ひ隠してしまつた。彼は又、その家の周囲《まはり》に薫《かん
前へ 次へ
全13ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 泰三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング