》ばしい匂《にほ》ひを放ついろいろの草花を植えた。彼の部屋の、書卓《テーブル》を据《す》ゑてある窓へ、葡萄棚《ぶだうだな》の葉蔭を洩《も》れる月の光がちら/\と射《さ》し込んだ。たつた一人で過す多くの夜を、その窓に倚《もた》れて、彼は幾度《いくたび》か/\自分の仕事、自分の将来についていろ/\に思ひを馳《はし》らせた。そんな時、いつも彼の心の中《うち》には抑へきれない憧憬《しようけい》が波うつてゐた。彼の所謂《いはゆる》「幸福な幻影」が彼の目の前に顕々《あり/\》と描き出《いだ》された。――最も合理的に耕作された田畑、緑の樹蔭《こかげ》に掩はれた村、肥えて嬉々《きゝ》として戯れてゐる牧獣や家禽《かきん》の群、薫ばしい草花に包まれた家屋、清潔に斉然《きちん》と整理された納屋や倉、……甦《よみがへ》つた農業! 愚昧《ぐまい》な怠慢な奴隷達から開放された、自由な、生々とした土地! そこでは凡てが新鮮で、気持よく、そして、これまでのやうな乱雑や、下劣や、廃頽《はいたい》やが何処《どこ》の隅にも見ることが出来ない。……
「僕の力できつと[#「きつと」に傍点]さうならせて見せる!」
 かう思ふと、彼は、いつもきまつて、何ものかに祈祷《きとう》を捧《さゝ》げたいやうな、涙ぐましい気持ちになるのであつた。

       三

 欣之介が予定してあつた春に、園《その》の林檎が花をつけた。その美しい淡紅色の花が、嘗《か》つて見たことのない村人の眼を驚ろかした。小作人のあるものは、「ひよつとしたら、若旦那の計画《もくろみ》がうまく成功するやうな事になるのではないか。」などと、愚かな心配をしながら囁《さゝや》き合つたりした。
 微風《そよかぜ》が日毎《ひごと》林檎林を軽く吹いて通つた。欣之介はその中で何かの仕事をしながら、「眼には見えないが花粉がうまい工合に吹き送られてゐるんだ!」と思ひ、人知れず心の中で微笑した。
「いよ/\これからだ。」
 が、丁度その頃から、彼と彼の父との間に、金銭上の事で何かごたごた[#「ごたごた」に傍点]した不機嫌な会話が屡々《しば/\》取交《とりか》はされるやうになつた。
 父は、初めから忰《せがれ》の企画《もくろみ》を賛成してはゐなかつた。忰が生涯を捧げようとまでしてゐる理想に対しても、たゞ、ほんの若い者の気紛《きまぐ》れ位にしか考えてゐなかつた。父は二言目
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