されますが、文芸上の天才には時として(敏感性の半面として)甚だしい猜疑の発作があります。万里の異郷の孤館の研学が度を過して多少精神に異状を来したといふことは、むしろ同情すべき事で決して不名誉とは思ひませんが、漱石さんが其事実をあとから否定されたとするのも、或は又帰朝の後にもかゝる発作の折にあゝいふ言を発せられたとするも、是は天才の痛はしい半面と見てたゞ嘆息すべきでありませう。
 今は世に無い御良人に対して辞句或は敬を失したかも知れませんが、漱石さんが深淵の学識と非凡の天才とを兼ねた文豪であり、明治大正に亘りて爛々の光彩を放つた偉大の作家であるといふ事実に対しては、深厚の敬意を払ひつゝある私であります。そして此一文を書いて寃を漉ぐ機会を偶然にも与へて下すつたあなたには一片感謝の念が無いではありません、決して皮肉にかく申すのではありません。



底本:「日本の名随筆 別巻31 留学」作品社
   1993(平成5)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「雨の降る日は天気が悪い」大雄閣
   1934(昭和9)年9月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、
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