天地有情
土井晩翠

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)黒暗《くらやみ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)我|魂《たま》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)見る/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〔〕:アクセント分解された歐文をかこむ
(例)〔Ou`〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを參照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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  序

「或は人を天上に揚げ或は天を此土に下す」と詩の理想は即是也。詩は閑人の囈語に非ず、詩は彫虫篆刻の末技に非ず。既往數百年間國詩の經歴に關しては余將た何をか曰はん。思ふに所謂新躰詩の世に出でゝより僅に十餘年、今日其穉態笑ふべきは自然の數なり。然れども歳月遷り文運進まば其不完之を將來に必すべからず。詩は國民の精髓なり、大國民にして大詩篇なきもの未だ之あらず。本邦の前途をして多望ならしめば、本邦詩界の前途亦多望ならずんばあらず。本書收むる所余が新舊の作四十餘篇素より一として詩の名稱を享受するに足るものあらず。只一片の微衷、國詩の發達に關して纖芥の貢資たるを得ば幸のみ。著者不敏と雖ども自ら僭して詩人と爲すの愚を學ぶものに非ず。
[#地から7字上げ]東京に於て
  明治三十二年三月[#地から2字上げ]土井林吉

     例言

[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、本書に收めたる諸篇の大多數は嘗て「帝國文學」及び「反省雜誌」に掲載せるもの、今帝國文學會及び反省雜誌社の許諾に因りて茲に轉載するを得たり、謹んで兩社に謝す。
一、詩を以て遊戲と爲し閑文字と爲し彫虫篆刻の末技と爲すは古來の漸なり、是弊敗れずんば眞詩決して起らじ。一般讀者の詩に對する根本思想を刷新するは今日國詩發達の要素なるを信ず。附録は泰西諸大家の詩論若くは詩人論なり。素是諸書漫讀の際偶然抄譯し置けるもの、故に精を窮め理を竭せるには非ずと雖も今日の讀詩界に小補なくんばあらず。敢て切に江湖の精讀を請ふ。
[#ここで字下げ終わり]


  希望

沖の汐風吹きあれて
白波いたくほゆるとき、
夕月波にしづむとき、
黒暗《くらやみ》よもを襲ふとき、
空のあなたにわが舟を
導く星の光あり。

ながき我世の夢さめて
むくろの土に返るとき、
心のなやみ終るとき、
罪のほだしの解くるとき、
墓のあなたに我|魂《たま》を
導びく神の御《み》聲あり。

嘆き、わづちひ、くるしみの
海にいのちの舟うけて
夢にも泣くか塵の子よ、
浮世の波の仇騷ぎ
雨風いかにあらぶとも
忍べ、とこよの花にほふ――

港入江の春告げて、
流るゝ川に言葉《ことば》あり、
燃ゆる焔に思想《おもひ》あり、
空行く雲に啓示《さとし》あり、
夜半の嵐に諫誡《いさめ》あり、
人の心に希望《のぞみ》あり。

  雲の歌

ゆふべは崑崙の谷の底
けさは芙蓉の峯の上
萬里の鵬の行末も
馳けり窮めむ路遠み
無限のあらしわが翼
空の大うみわが旅路。

空の大海星のさと
緑をこらすたゞなかに
懸かる微塵の影ひとつ
見る/\湧きて幾千里
あらしを孕み風を帶び
光を掩ふてかけり行く。

いかづち怒り風狂ひ
山河もどよみ震ふとき
天潯高く傾けて
下界に注ぐ雨の脚
やめば名殘の空遠く
泛ぶ七いろ虹のはし。

曙の紫こむらさき
澄みてきらめく明星の
光微かに眠るとき
覺むる朝日を待ちわびつ
やがて焔の羽《はね》添へて
中ぞら高くのぼし行く。

しづけき夜半の大空に
ほのめき出づる月の姫
下界の花を慕ひつゝ
半ば耻らふ面影は
ために掩ほはむわが情
輕羅の袖と身を替て。

照りて萬朶の花霞
花にも勝る身の粧
あるは歸鳥の影呑みて
ゆふべ奇峯の夏の空
海原遙か泛びては
紛ふ白帆の影寒く。

織ればわが文春の波
染むれば巧み秋の野邊
羽蓋|凝《こほ》りて玉帝の
御駕《みくるま》空に駐るべく
錦旗かへりて天上の
御遊《ぎよゆふ》の列の動くべく。

跡こそ替れ替りなき
自然の工みわが匂ひ
嶺に靉く夕暮は
天女羅綾の舞ごろも
斷片風に流れては
われ晴空の孤月輪。

影縹緲の空遠く
ゆふべいざよふわが姿
無心のあとは有《いふ》情の
誰が高樓《かうろう》の眺めぞや
珠簾かすかに洩れいでゝ
咽ぶ妻琴ねも細く。

千仭高ききり崖《ぎし》の
嶺に聳たつ松一木
緑の枝に寄りかゝり
風の袂を振ふとき
鳴く音《おと》すみて來るたづに
貸さむ今宵の夢の宿。

岸の柳ともろともに
水面に影を宿すとき
江山遠き一竿《いつかん》の
不文のひじり何と見む
思は清く身は輕く
自在はわれに似たる身の。

自然の姿とこしへに
われは昨日の我ながら
嗚呼函關の紫も
昔のあとぞ遙かなる、
帝郷遠し影白く
泛べば慕ふ友や誰れ。

  星と花

同じ「自然」のおん母の
御手にそだちし姉と妹《いも》
み空の花を星といひ
わが世の星を花といふ。

かれとこれとに隔たれど
にほひは同じ星と花
笑みと光を宵々に
替はすもやさし花と星

されば曙《あけぼの》雲白く
御空の花のしぼむとき
見よ白露のひとしづく
わが世の星に涙あり。

  鷲

紫にほふ横雲の
露や染めけむ花すみれ
花に戯るゝ蜂蝶《ほうてふ》の
戀か恨かうつゝ世の
はかなき春をよそにして
 大空のぼる鷲一羽
 あらしは寒し道さびし。

春の姿はたへなれど
花の薫りはにほへれど
其春よりも美はしく
其花よりもかんばしき
雲井のをちをめざしつゝ
 大空高く鷲一羽
 あらしはきびし道かたし。

背には無限の天《てん》を負ひ
緑雲はねにつんざきて
飛び行くはてはいづくぞや
望のあした持ち來る
高き薫りのあとゝめて
 大空めぐる鷲一羽
 あらしはつらし道すごし。

嗚呼コーカサス峯高く
千重の叢雲むらだちて
下界のひゞきやむところ
天上の火を奪ひ來し
彼のたぐひか青ぐもの
 大空翔くる鷲一羽
 あらしははげし道遠し。

  萬有と詩人

[#ここから4字下げ]
Atque omne immensum peragravit mente
 animoque. Lucretius.
[#ここで字下げ終わり]

「渾沌」よさし窮りて
時「永劫」のふところを
出でしわが世のあさぼらけ
かざしににほふ明星の
光に琴を震はして
詩人よ君は歌ひしか。

流るゝ光りしづむ影
過ぎし幾世の春秋ぞ
巖は移り山は去り
淵も幾たび替りけむ
おほあめつちの美はしき
たくみは今もむかしにて。

あゝわだつみの波の花
銀蛇の飛ぶに似たるかな
仰げば空に虹高し
虹にも醉はぬわがこゝろ
波にもにぶきわがこゝろ
たのむは獨り君が歌。

生ける焔のバプテズマ
浮世の塵を燒き掃ひ
雲を震はせ風に呼び
光に暗に伴ひて
大空遠く翔けりくる
詩神の歌を君聞くや。

あさ日の光りゆふ光り
かれとこれとの染め替ふる
たくみもよしや天雲《あまぐも》の
輕羅のころも花ごろも
曳くやもすその紅に
詩神の影を君見るや。

「泉のほとり森のかげ
光てりそふ岡[#「岡」に「(一)」の注記]」のみか
あしたの風の吹くところ
ゆふべの雲のゐるところ
露のしづくのふるところ
いづくか歌のなからめや。

流るゝ水のゆくところ
きらめく星のてるところ
緑の草の生ふところ
鷲の翼を振るところ
獅子のあらしに呼ぶところ
いづくか歌のなからめや。

春は吉野のあさぼらけ
こむる霞のくれなゐも
遠目は紛ふ花の峯
夏はラインの夕まぐれ
流は遠く水清く
映るも岸の深みどり

汨羅の淵のさゞれなみ
巫山の雲は消えぬれど
猶搖落の秋の聲
潮も氷る北洋の
巖を照らすくれなゐは
光しづまぬ夜半の日か。

路に斃れしカラバンの
枯骨碎けて塵となり
魂《たま》啾々の恨さへ
あらしにまじる大砂漠
もの皆滅ぶ空劫の
面影君はこゝに見む。

黒雲高くおほ空の
照る日の影を呑みけして
紅蓮の焔すさまじく
巖も熔くる火のみ山
あめつちわかぬ渾沌の
おもかげ君はこゝに見む。

まぼろし追うてくたびれて
しばし野末の假のやど
結ぶや君よ何の夢
さむれば赤したなごゝろ
あたりの風を匂はして
笑むはやさしの花ばらか。

涙にあまる思[#「思」に「(二)」の注記]とは
歌ふをきゝぬ野路の花、
荒磯蔭のうつせ貝
聲なきものを何人か
海のしらべをこゝろねを
其一片に聞き[#「聞き」に「(三)」の注記]にけむ。

たかねの崖に花にほひ
情波の淵に歌は湧く、
無象を聲に替ふるてふ
君が心耳《しんに》のきくところ
空のいかづち何をつげ
夜半のこがらし何を説く。

夜半のこがらし何を説く、
「眠」の如く「死」の如く
やさしき鳩の羽《はね》たゆく
ゆふべの空に下《お》るごとく
詩神の魂《たま》の降り來て
君が心をみたすとき。

夜の薫りの高うして
天地しづかに夢に入る
うちに聲なく言葉なく
またゝく窓のともしびに
風の姿を眺めては
思はいかに君が身の。

心の窓も押しあけて
眺むる空に流れくる
星の行衞はいづくぞや
清きアボン[#「アボン」に「(四)」の注記]の岸のへか
咲くタスカン[#「タスカン」に「(五)」の注記]の花の野か
それワイマア[#「ワイマア」に「(六)」の注記]の森蔭か。

北斗は遠し影高し
望の光り愛の色
かれにもしるき參宿[#「參宿」に「(七)」の注記]の
もなかにひかりかゞやきて
(かたどる影は眞善美)
三の星こそ並ぶなれ。

坤輿一球透き通り
仰ぎて上に見るがごと
下にも光る千萬《せんまん》の
星の宿りを眺め得ば
下界の名さへ空しくて
我世いみじと知るべきを。

まことの光りまことの美
狹霧に蔽はれとざされて
暗にさまよふわがこゝろ
たのむは獨り君が歌
紫蘭の薫り百合花の色
爲めに咲かなん君が歌。

しらべも高くねも高く
あらきあらしを和げて
微妙の樂に替ふるてふ
君が玉琴かきならし
涙のうちにほゝゑみて
暗のうちにもかゞやきて。

かのオルヒスのなすところ
陰府《よみ》に繋がる魂を解き
かのピタゴルの説くところ
御空に星の樂を聞き
かのプラトンの見るところ
高き理想の夢に醉へ。

[#ここから改行天付き、折り返して6字下げ]
   ――――――――
(註)(一)失樂園第三卷
   (二)ヲルヅヲルス
   (三)ロセツテ
   (四)セークスピア
   (五)ダンテ
   (六)ゲーテ
   (七)オライオンの星宿
   ――――――――
[#ここで字下げ終わり]

  はるのよ

あるじはたそやしらうめの
かをりにむせぶはるのよは
おぼろのつきをたよりにて
しのびきゝけむつまごとか。

そのわくらばのてすさびに
すゞろにゑへるひとごゝろ
かすかにもれしともしびに
はなのすがたはてりしとか。

たをりははてじはなのえだ
なれしやどりのとりなかむ
おぼろのつきのうらみより
そのよくだちぬはるのあめ。

ことばむなしくねをたえて
いまはたしのぶかれひとり
あゝそのよはのうめがかを
あゝそのよはのつきかげを。

  哀歌

同じ昨日の深翠り
廣瀬の流替らねど
もとの水にはあらずかし
汀の櫻花散りて
にほひゆかしの藤ごろも
寫せし水は今いづこ。

心ごゝろの春去りて
色こと/″\く褪めはてつ
夕波寒く風たてば
行衞や迷ふ花の魂
名殘の薫りいつしかに
水面遠く消えて行く。

恨みを吹くや年ごとの
瑞鳳山の春の風
をのへの霞くれなゐの
色になぞらふ花ごろも
とめし薫りのはかなさは
何に忍びむ夕まぐれ。

暮山一朶の春の雲
緑の鬢を拂ひつゝ
落つる小櫛に觸る袖も
ゆかしゆかりの濃紫
羅綺にも堪へぬ柳腰《りうやう》の
枝垂《しだり》は同じ花の縁
花散りはてし夕空を
仰げば星も涙なり。

池のさゞ波空の虹
いみじは脆き世の道を
われはた泣かむ花の蔭
其花掃ふ夕
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