新詩發生時代の思ひ出
土井晩翠

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大凡《オホヨソ》

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(例)『|人生の歌《ゼサームオフライフ》』

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(例)テイン※[#小書き片仮名ヌ、1−6−82]など

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 (例)時々深夜聞[#レ]鷄起
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 ブランデスやテイン※[#小書き片仮名ヌ、1−6−82]などに其例を見る通り、文學史を書く者の中には、勝手な豫定の觀念を基とし、これに當てはまる材料のみを引用して、何とかかとか纏りを附け度がる弊風がある。漢文學史の上にも澤山の類例があらう。元遺山の編と稱せられて、そして實際其編である事は間違ひない、と思はるゝ「唐詩鼓吹」に、明末清初の錢謙益(牧齋)が序文を書いて、中に明代三百年來の詩學の弊風を攻撃し、
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『あゝ唐人一代の詩各々神髓あり、各々氣候あり、然るを初唐盛唐中唐晩唐と無理に區分[#「無理に區分」に白丸傍点]して、隨て之を判斷し、此が妙悟、彼が二乘、此が正宗、彼が羽翼……など、支離滅裂して、唐人の面目を千歳の上に暗からしむ』(意譯)
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と嘆じ、そして此弊風は嚴羽の詩論「滄浪詩話」と高廷禮編集の「唐詩品彙」とが責を負ふ可きものであると痛論して居る。
 明治文學ももう過去のものとなつて、「明治小説史」「明治詩歌史」などゝ題するものが昨今可なり多い。
 昭和二年頃に新潮社刊行の「日本文學講座」の中にも若干篇がある。『新詩發生時代の思ひ出』といふやうな題で何か書けと、畑中氏から先般依頼されて居たが、近頃或る事柄で頗る繁忙なので、濟まないが全く打ち捨て置いたが、原稿締切の期日が眼前に迫るので、慌て氣味に貧弱な藏書を調べると、右の新潮社の刊行があつた。そして其中に新詩發生時代を説く、「明治詩史」といふものを見附けた。可なりよく調べて居るやうだが、やはり文學史家の陷る弊風が無いでもない。
 昨年の「國語と國文學」の夏期特輯、「明治大正文學を語る」(藤村作博士が卷頭に序して居る)八月號の編輯後記に『本誌自體が書き改められた明治大正文學史であると曰つても誇稱では無からうと思ふ』とあるが、私が課せられた題目の新詩發生時代に就ても面白い思ひ出が數々載せられてある、其中井上巽軒先生の御話がよく當時の實際を穿つて居る。
 先生の御話中には無いが、明治最初刊行の新詩は福澤先生のである、即ち「世界國づくし」、七五調で世界地理を歌ふた當時の破天荒である。今日から見れば、まづい點のあるを免れないが、『五大洲』を韻文であゝ迄に歌ふといふ事が確に偉い、しかも是は全く先生の餘技である。見返しには――
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『福澤諭吉著、素本世界國盡全三册明治五年壬申初冬、福澤論吉賣弘』
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とある、そして發端は――
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『世界は廣し萬國は・おほしといへど大凡《オホヨソ》・五つに分けし名目は・亞細亞阿非利加歐羅巴・北と南の亞米利加に・堺かぎつて五大洲・大洋洲を別に又・南の島の名稱《トナヘ》なり……』
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歐洲を歌つては――
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『……國の大小強弱も・時勢によつて浮き沈み・魯西亞普魯士墺地利・英と佛との五ヶ國は當時日の出の五大國・……(歐洲は)人民恆の産を得て・富國強兵天下一……兵備整ひ武器足りて・世界に誇る泰平の・その源を尋るに・本を務る學問の・枝に咲きたる花ならむ・花見て花を羨むな[#「花見て花を羨むな」に傍点]・本なき枝に花は無し[#「本なき枝に花は無し」に傍点]・一身の學に急ぐこそ[#「一身の學に急ぐこそ」に傍点]・進歩はかどる[#「進歩はかどる」に傍点]紆路《マワリミチ》・共にたどりて西洋の・道に榮る花を見む』
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 これは昭和十年の今日でも傾聽するに足る、流石は一代の先覺である。全篇三卷を讀み通すと、明治初年に於ける世界の大勢が朧げながら伺はれる。(書中の固有名詞などの書き方が頗る振つてゐるのも一興。内留《ナイル》河、比羅三井天《ピラミイデ》、尻屋《シリヤ》、羽禮須多院《パレスタイン》、奈保禮恩《ナポレオン》、和阿戸留樓《ワートルロー》、治部良留多留《ジブラルタル》、金田《カナダ》、輕骨田《カルコツタ》、荒火屋《アラビヤ》、衞士府都《エジプト》、麻田糟輕《マダカスカル》等々々《トウトウトウ》)
 但し流石の先生も、米國に行て其物質文明に眩惑されて、極端の米國崇拜となつたのは無理もない。
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『…天の道理に基きて・國に報ゆる丹心の・誠に出でし一國の・不覊獨立の勢は・留めんとすれど止らず・北亞米利加の十三州・……十三州の名代人・四十八士の連判状・世界に示す檄文に・英吉利王の罪を攻め……失ふ生命《イノチ》得る自由・正理屈して生きんより・國に報ゆる死を取らん・一死決して七年の・長の月日の攻守《セメマモリ》・知勇義の名を千歳に・流す血の河骨の山・七十二戰の艱難も・消えて忘るゝ大勝利・……』
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 次に米國の建國と進歩とを謳歌して『工商は英國と比肩し、文教技藝は佛國に優る』と讚し、世界の四方より『衣食を逐ふ人の情』で、集り來る殖民の故に、人口三千餘萬に増加し、(日本も明治十五六年頃は「三千餘萬兄弟どもよ、守りにまもれ君が代を……」と歌つたものだ)東西一千三百里、南北七百里、十三州は三倍して『三十六州竝び立ち』……ニユーヨルク(入世留久!)は、人口凡一百萬・國中一の交易場である……と書いてゐる。福澤先生は其後「暗誦十詞」を明治六年刊行したと、今は故人たる吉野甫が、明治四十一年昭文堂刊行の「明治詩集」中の新體詩年表に書いたが、それはまだ讀むで居ない。
 明治時代韻文刊行の第二は、其後十年ばかりを過ぎて、明治十五年四月の「新體詩抄」であらう。東京帝國大學(當時唯一の帝大)の外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎三博士の合編である。其第一頁は『ブルウムフヰールド氏兵士歸郷の詩』外山(ゝ山仙史)の譯、『凉しき風に吹かれつゝ……』である。
 前記「國語と國文學」の井上先生の當時の追想談を讀むと、外山博士の熱心が窺はれる。今でも軍歌として時々ラヂオにも出て來る拔刀隊歌(明治十年西南役の歌)は其作である。『我は官軍我が敵は天地容れざる朝敵ぞ、敵の大將たる者は古今無双の英雄ぞ、之に從ふつわものは共に慓悍決死の士……』私は「東洋學藝雜誌」で初めて之を讀むだ(同誌に東京市の歌「あな變りたり武藏野や」といふのもあつたが誰れの作か覺えて居ない)。
 其後又十餘年を過ぎて外山井上兩博士は共に明治廿八年初刊の「帝國文學」紙上に時々詩を發表した。『旅順の英雄可兒大尉』といふ散文詩(?)を外山博士は日清戰役時代に書いた。其頃皮肉屋の齋藤緑雨が、『新體詩見本』と題して外山、佐佐木(信綱)、與謝野鐵幹等諸家の口調を眞似て Parody を書いた。外山調に『火鉢の上に鐵瓶が・落ちて居るとて無斷にて・他人の物を持ち行くは・取りも直さず泥坊ぞ(「取りも直さず」は「即ち」)泥坊元來不正なり・雲を霞と逃ぐるとも・早く繩綯ひ追ひ駈けて・縛せや縛せ犯罪人。』
 前の「新體詩抄」及び之から出發した竹内節の新體詩歌に歸るが、其中に井上博士はロングフエローの『|人生の歌《ゼサームオフライフ》』を譯した。此原詩は米國の少年達は皆悉く暗誦して居るだらう。日本の少年達もさうするがよい。靈魂不滅と敬神と發奮努力と希望とを歌つてゐる。後に相模の海岸で溺死した矢田部理學博士は尚今居士の號でグレイの『哀歌《エレヂイ》』を譯した。
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『山々かすみ入相の・鐘は鳴りつつ野の牛は・徐に歩み歸り行く・耕す人もうち疲れ・やうやく去りてわれ獨り・たそがれ時に殘りけり。』(首節)
『此處に生れてこゝに死に・都の春を知らざれば・其身は淨き蓮の花・思は澄める秋の月・實《げ》に厭ふべき世の塵の・心に染みしことぞなき』(十九節)
『これより外に此人の・善惡ともになほ深く・尋ぬるとても詮は無し・たましひ既に天に歸し・後の望を抱きつつ・神にまぢかく侍るなり』(終節)
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 恐らく當時第一の好譯詩であらう。曰ふ迄もなく原詩は不朽の傑作である。私は十四五歳の頃、この譯詩を非常に愛讀した。そして親戚の庄司(當時駒場農學校生「わかもと」の澤田博士の友)が原詩を有したのを借りて來て覺束なくも讀んで見た、或は寧ろ(當時やつとABCを習つたばかりだから)眺めたといふ方が正しからう。西詩に對する私の愛好は多分これからであつただらう。
『ハムレツト』中の有名の獨語“To be or not to be……”の譯も詩抄中にあつた。――
『ながらうべきか但し又・ながらふべきに非るか・是が思案のしどころぞ……』途方も無い譯であるが、是に因て私は初めてシエイクスピヤの名を知つた。
 小學時代には父(擧芳と號した父)の感化で太閤記、八犬傳、三國志、水滸傳などを、又教科書としては、就中十八史略を愛讀したが、其後十八歳迄の獨學時代、竝に之に續く時代に影響を受けたものの中に、その頃創刊の「國民の友」又日刊の「自由の燈」がある。前者の明治二十二年の文學附録「おもかげ」などは最も好んで讀んだ。『みちのくの眞野の茅原遠けどもおもかげ[#「おもかげ」に傍点]にして見ゆとふものを』から題を取つたもの、落合直文、森林太郎(鴎外)等諸先生の西詩譯集である。後者は怪傑星亨の機關新聞で、猛烈に薩長政府を攻撃した。此紙上で千八百八十五年ユーゴーの逝ける時、二三十囘に連載した此大文豪の傳記評論を讀んで多大の感激と印象とを得た。
 明治二十一年十八歳で二高に入學、補充科一年、豫科三年、本科二年の科程を、六ヶ年かかつて終了したが、其頃に山田美妙や尾崎紅葉や幸田露伴先生が現はれた。山田は言文一致體――今日の口語體の先鋒で金港堂發行月刊「都の花」の花形であつた。末路は悲慘であつたが、彼の遺した文學上の功績は斷じて僅少でない。紅葉は『七生文章に盡さん』と其後臨終の際に曰つた通り、彫心鏤骨の文章を書いたのは尊い。露伴先生が明治二十二年(二十三歳で)「風流佛」(新著百種第五卷)を、翌年つづいて「對髑髏」(初名「縁外縁」)を著はされたのは私共にとつて駭心張目の對象であつた。故内田魯庵が『此兩作を書いた露伴は只に明治文壇とのみ曰はず、世界文學界の珍である、眞に百世稀に出づる天才の面影は此作に最もよく現はれてをる』と激賞した。(春陽堂の明治大正文學全集第六卷第六百六十六頁、柳田泉氏の解題による)
 日清戰爭の初めの年明治二十七年、仙臺から始めて出京して東京帝國大學英文科に入つた。文學部長は我々が大入道と綽名した外山博士であつた。井上哲次郎博士が獨逸から六年餘の留學を卒へ、歸朝して萬丈の氣※[#「火+稻のつくり」、第4水準2−79−88]を吐いたのも其頃である。翌年所謂赤門文學「帝國文學」(月刊)が創刊された、第一號に序を書いたのは高山樗牛であつた。編輯委員は哲學科の高山、國文科の鹽井(雨江)大町(桂月)佐々(醒雪)英文科の上田(柳村――敏)であつた。初號中の一長篇に對して反感を抱いた某雜誌(名を忘れた)が『長いことろくろ[#「ろくろ」に傍点]首のへど[#「へど」に傍点]の如し』と冷評した。
「帝國文學」は又時々名士を聘して講演を開いた。其何囘目かに矢野龍溪、福地櫻痴のを私が聽いたのは小石川植物園に於てであつた。龍溪の莊重な態度は今でも目に殘る。孔明を歌へる杜少陵の句『宗臣遺像肅清高[#「肅清高」に丸傍点]』が思ひ出される。これより先、明治十七年、彼は「齊武名士經國美談」を著はして所謂洛陽の紙價を高からしめ、我々少年時代の隨喜渇仰の的であつた。エパミノンダス、ペロピダス等の名は之に因て我々の熟知する處となつた。彼は國家經綸の才を以て自ら任じて抱負が
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