甚だ高く、本書の自序に、『……小説の世に於ける音樂畫圖の諸美術と一般、尋常遊戲の具に過ぎず、本書を讀む者亦之を遊戲具を以て視る可なり……』そして卷後に七絶を題して曰ふ、
[#ここから1字下げ]
『年少誤懷天下憂・時々深夜聞[#レ]鷄起・半生事業何所[#レ]成・抂向[#「抂向」に白丸傍点][#二]燈前[#「燈前」に白丸傍点][#一]編[#「編」に白丸傍点][#二]小史[#「小史」に白丸傍点][#一]』
[#ここで字下げ終わり]
彼は眞正の文學の偉大を(時代が時代ゆゑ)分らないのである。「經國美談」の二十二年前即ち千八百六十三年『レ・ミゼラブル』に大ユーゴーの序した左の文と對照するも善からう。
[#ここから1字下げ]
『法律及び慣習の力を假りて一種の社會的處罰が此世に存し、文明のただ中に人爲的地獄を造り、人界の災難を以て神聖の運命を紛糾せしむる限り、――現時の三問題、貧困による男子の墮落、飢餓による女子の破滅、暗夜による小兒の萎縮――の解放されざる限り――或方面に於て社會的假死状態の可能なる限り――(更に一層廣き見地より換言すれば)地上に無知と悲慘との存せん限り、本書の如きものは無用ならざるべし』
なほ後に引用するエマスンの言も參考になる。明治二十九年第二囘「帝國文學」委員に擧げられたのは、故藤岡勝二、故岡田某、青木昌吉、戸川秋骨の諸氏と私とであつた。委員となつた以上、集る原稿の不足な折は、何とかして豫定のページを滿たさねばならぬ。さういふ次第で時々詩作などを同誌上に載することゝなつた。唐人の七絶の句『紅葉青山水急流』を取つて題とした一篇、シラの『理想』中の四行を初めに引いたのが其一例である。三十年英文科を卒業した時の同級者に今の女子學習院長長屋順治氏また故上田柳村(敏)があつた。上田の母堂は明治の初め津田梅子や、後に大山公爵夫人となつた少女達と共に、十歳前後で米國に留學したのである。上田が英語英文に長じたのは勿論母堂の感化であらう。此秀才は又佛語が得意で、「海潮音」中に近代の佛詩を(獨伊等のもあるが)頗る巧に譯した。元來詩の完譯は殆んど不可能のものだが、さすが柳村の技倆は、殆んど不可能なるものを可能とした。ルコント・ド・リイルの譯、エレデアの譯は其適例である。惜しいことに、彼の創作は極めて少數である。ちと脱線であるが、譯詩についての面白い話は、シラの『ワーレシユタイン』を、サミユール・テイラ・コレリヂが英譯した事である。詩才はコレリヂが勝ると思はるゝが、彼が獨逸に一ヶ年ばかり滯在の時に試みた其譯は、詩才に任かせて隨分勝手に書き直した點がある。それを原作者が讀んで感服し、『成るほど! かうするが善い』とて、原作を書き換へたといふ事だ。詩壇上極めて稀有の美談珍談であらう。
島崎藤村君が「若菜集」を春陽堂から出版したのは、明治三十年と覺ゆる、是が眞に新時代を劃する傑作であることは今更曰ふ迄も無い。先輩として敬意を捧げるに躊躇せぬ。私の第一詩集「天地有情」は之より二年おくれて三十二年の四月博文館から刊行された。この中には『星落秋風五丈原』『暮鐘』などが含まれてある。初め此刊行を申込んだが『そんなものは眞平だ』と斷はられて、大にしよげた時『可愛想に』と同情を寄せて同館の大橋乙羽を説服して澁々之を出版せしめたのは、博文館に當時深い關係のあつた故高山樗牛と故久保天隨(後に臺灣帝大の漢文學教授)の兩博士であつた。其時の原稿料は三十圓内外であつた。印税などは思ひもかけなかつたのである。之がフロツクコート一着の代價となつたなどは、今更思ふと可笑しくもあり馬鹿々々しくもある。此集は出版者及び著者たる私の豫想外に頗る讀詩界に歡迎された。彼此百版近くも刊行されたらしい。集中の『星落秋風五丈原』に關して一寸面白い話がある。此詩は明治三十一年十一月號の「帝國文學」に初めて載つたものだが、其直後に、上野の動物園で東印度生れの猩々が死んだ。前年着いて大評判になり、遂に天聽に達して宮城の中に召され、叡覽を忝うしたほどであつたが、風土に適せず寒氣に犯されて遂に斃れた。これに關して坪谷水哉君が「文藝倶樂部」(三十二年一月號)に『猩々の追善』と題して頗る面白い長文を書いた。其大意を述べると、動物園内で、一月二日第一月曜の休日(人間の縱覽を許さぬ日)に、猩々舊棲の鐵柵の前で、追善會を催うした云々、年番幹事の猪が喪主となり、親類總代の猿が弔文を讀み、つづいて鸚鵡は某氏の『星落秋風五丈原』の假聲をやつて、一篇の和讚を歌ふた……云々その和讚の題は『星落秋風動物園』である。左に原詩の第一節と和讚とを對照する。
[#ここから2字下げ]
[#ここから底本では上段]
祁山悲秋の風更けて、
陣雲暗し五丈原、
零露の文は繁くして、
草枯れて馬は肥ゆれども、
蜀軍の旗光なく、
鼓角の音も今しづか、
丞相病篤かりき。
[#ここまで底本では上段]
[#ここから底本では下段]
上野の山に風あれて、
時雨降りしく動物園、
北海道の羆《ひぐま》さへ、
寒さに頸を縮むめり、
况して天竺熱帶の、
野山に育ちし動物が、
寒氣に得堪へでゆくりなく
健康傷るぞ是非もなき、
猩々病篤かりき。
[#ここまで底本では下段]
[#ここで字下げ終わり]
水哉君の此の名文(と曰ふてもよからう)――其終に象と虎の弔辭がある。『象は眞言宗と見えて、鼻の先に香を摘んで、香爐に不恰好に振り撒き、「象撒くサンザンだ(ノーマクサンマンダのもじり)ベーロシヤナア」と唱へて退く……虎は禪宗と見えて「南無迦羅タンノウ虎ヤー虎ヤー」(これでお仕舞)』と結んでゐる。
其後私は「曉鐘」「東海遊子吟」「曙光」「天馬の道に」「アジアに叫ぶ」譯詩としてはバイロンの「チヤイルド・ハロード」(全譯)などを出したが、世間一般は私を主として「天地有情」の作者と見なしてゐるらしい。こんなことを曰ふのは憚るべき次第かも知れぬが、「天馬の道に」を比較的善いものと自分では考へてゐる。世界大戰終了の後二年、一千九百二十年三月の出版、イタリヤのダヌンチオが、東亞飛行の壯擧決定と聞いた後、大正八年九月十八日、全體の構想が一夜に成り、尋で聯想の翼の擴がるまにまに補足して成つたもの、三十六章から成るが、各章皆獨立の一篇として讀んで差支ない。天馬ペガサスが天翔ける道を飛來する南歐の詩人を歡迎する其序詩は初め「中央公論」に載つた。之を誰かが當時イタリヤ滯在の下位春吉君に送つたと見えて、同君は詩人エンリコ君と共に之をイタリヤ語に譯してナポリの書店から發行した。ダヌンチオ詩宗が之を讀んで激賞したといふことを、下位君から當時伊國漫遊中の故二高校長武藤虎太郎君を通じて報道された。
「激賞」とは大割増だらうが、一寸嬉しくないことも無かつた。序詩の伊譯はさすが伊語の性質上原作以上である。
前に戻るが「天地有情」出版の折は『坊つちやん』形氣で、序の中に『…詩は閑人の囈語に非ず…』とか、例言の中には『詩を遊戲と見なし、閑文字と見なすのは、古來の習慣であるが、此弊風が敗れぬ中は眞の詩は起らない、一般讀者の詩に對する根本觀念を刷新するのが、今日國詩發展の要素である』などゝ書き、附録に歐洲諸文豪の詩論或は詩人論を譯載した。カーライル、シエリイ、ジヨージ・サン、エマスン、ユーゴーのそれである。右例言中の『古來の習慣』は今思へば『或時代の習慣』と訂正すべきであらう。カーライルのは「英雄崇拜論」の第三講にいふ處、シエリイのは「詩の辯護」にいふ處、――私は今でも當時とひとしく、シエリイを英國最大詩人の一と信じ、シエイクスピアに次いでの英國第二位の大詩人の候補者(スペンサア、ミルトン等と共に)と仰ぎたい。彼は――
『詩は人意を以て致すべきでは無い、我れ詩を作らうと人は曰ひ得ない、最大詩人も曰ひ得ない』
と曰ふ、體驗からであらう。大ゲーテが『偉大の詩……は自己の力で出來たのではない、靈の惠である』とエツカマンとの對話中に曰ふ處と一致してゐる。
シエリイはオツクスフオード大學生時代、青春の客氣に驅られて、「無神論の必要」を書いて退校處分を受けたが、其後の作を讀むと、無神論どころか、神祕な宇宙の大虚に對して深甚の崇拜を捧げてゐる。三十歳ばかりで南歐の海に溺死したが、ゲーテ、ユーゴー、カーライル……の如く八十餘歳の長壽を保つたなら、どれほどの大作を人界に殘しただらう。
エマスンのは論文集第二篇の『詩人論』からである。――
[#ここから1字下げ]
『宇宙に三兒がある、知る者、行ふ者、言ふ者、即ち眞を愛するもの、善を愛する者、美を愛する者、――三者は同等である。詩人は言ふ者で、美を代表する、……詩人は副王でない、自個の權に於て帝王である、……俗人は只行爲活動を尚び、爲さずして曰ふ者を排斥する、詩人が言者で、述言の爲めに此世に下されたことが分らない。ホーマアの言の尊いのは、アガメムノーン(希臘の英雄)の勝利の尊いのと同樣である。詩人は英雄を待たない、聖人を待たない……』
[#ここで字下げ終わり]
ユーゴーのは「光と暗」(一千八百四十年刊行)の序全部で、例の如く飽く迄も意識的に自己の抱負を述べたものである。
[#ここから1字下げ]
『……(完美の詩人は)係累が無い、桎梏が無い、意思と行爲と共に等しく自由である、……一切の艱難を憐むに於て自由である。一切の敬信を尊ぶに於て自由である。……自然界の中に生き、活世界の中に住み、……好友として原野に春を眺め、玉樓に王侯を望み、獄裏に囚人を見る……』
[#ここで字下げ終わり]
詩及び詩人に對する是等の評に對して、私は今日も何等反對すべきものを見出さない。
明治卅三年正月、故郷仙臺にある第二高等學校に仕官し、卅四年海外漫遊に出かけ、卅七年秋、日露戰役の最中歸朝し、翌年再び二高に就職して爾來三十餘年、既往は眞に一夢のやうに感ずる。昨年、本官を辭したが、今なほ講師として奉職して居る。同僚中には、日露戰役後三年に生れた若い方もある。いつ迄も青年氣取りで、たまに晩翠翁なぞ新聞紙上に書かれると内々大不平だが、何とも致し方がない。呵々。
與へられた枚數が盡きたから、こゝで擱筆する。
[#ここから1字下げ]
(附言)昨年秋出版の隨筆集、「雨の降る日は天氣が惡い」の序言中に述べた通り、私の姓は從來ツチヰと發音し來つたが、種々の理由でドヰと改音した。序ながら一寸こゝに書く。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「明治文學全集 58 土井晩翠 薄田泣菫 蒲原有明 集」筑摩書房
1967(昭和42)年4月15日発行
初出:「中央公論」中央公論社
1935(昭和10)年7月号
※底本は、物を數える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2006年7月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
土井 晩翠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング