イン』を、サミユール・テイラ・コレリヂが英譯した事である。詩才はコレリヂが勝ると思はるゝが、彼が獨逸に一ヶ年ばかり滯在の時に試みた其譯は、詩才に任かせて隨分勝手に書き直した點がある。それを原作者が讀んで感服し、『成るほど! かうするが善い』とて、原作を書き換へたといふ事だ。詩壇上極めて稀有の美談珍談であらう。
島崎藤村君が「若菜集」を春陽堂から出版したのは、明治三十年と覺ゆる、是が眞に新時代を劃する傑作であることは今更曰ふ迄も無い。先輩として敬意を捧げるに躊躇せぬ。私の第一詩集「天地有情」は之より二年おくれて三十二年の四月博文館から刊行された。この中には『星落秋風五丈原』『暮鐘』などが含まれてある。初め此刊行を申込んだが『そんなものは眞平だ』と斷はられて、大にしよげた時『可愛想に』と同情を寄せて同館の大橋乙羽を説服して澁々之を出版せしめたのは、博文館に當時深い關係のあつた故高山樗牛と故久保天隨(後に臺灣帝大の漢文學教授)の兩博士であつた。其時の原稿料は三十圓内外であつた。印税などは思ひもかけなかつたのである。之がフロツクコート一着の代價となつたなどは、今更思ふと可笑しくもあり馬鹿々々しくもある。此集は出版者及び著者たる私の豫想外に頗る讀詩界に歡迎された。彼此百版近くも刊行されたらしい。集中の『星落秋風五丈原』に關して一寸面白い話がある。此詩は明治三十一年十一月號の「帝國文學」に初めて載つたものだが、其直後に、上野の動物園で東印度生れの猩々が死んだ。前年着いて大評判になり、遂に天聽に達して宮城の中に召され、叡覽を忝うしたほどであつたが、風土に適せず寒氣に犯されて遂に斃れた。これに關して坪谷水哉君が「文藝倶樂部」(三十二年一月號)に『猩々の追善』と題して頗る面白い長文を書いた。其大意を述べると、動物園内で、一月二日第一月曜の休日(人間の縱覽を許さぬ日)に、猩々舊棲の鐵柵の前で、追善會を催うした云々、年番幹事の猪が喪主となり、親類總代の猿が弔文を讀み、つづいて鸚鵡は某氏の『星落秋風五丈原』の假聲をやつて、一篇の和讚を歌ふた……云々その和讚の題は『星落秋風動物園』である。左に原詩の第一節と和讚とを對照する。
[#ここから2字下げ]
[#ここから底本では上段]
祁山悲秋の風更けて、
陣雲暗し五丈原、
零露の文は繁くして、
草枯れて馬は肥ゆれども、
蜀軍の旗光なく、
鼓角の音も今しづか、
丞相病篤かりき。
[#ここまで底本では上段]
[#ここから底本では下段]
上野の山に風あれて、
時雨降りしく動物園、
北海道の羆《ひぐま》さへ、
寒さに頸を縮むめり、
况して天竺熱帶の、
野山に育ちし動物が、
寒氣に得堪へでゆくりなく
健康傷るぞ是非もなき、
猩々病篤かりき。
[#ここまで底本では下段]
[#ここで字下げ終わり]
水哉君の此の名文(と曰ふてもよからう)――其終に象と虎の弔辭がある。『象は眞言宗と見えて、鼻の先に香を摘んで、香爐に不恰好に振り撒き、「象撒くサンザンだ(ノーマクサンマンダのもじり)ベーロシヤナア」と唱へて退く……虎は禪宗と見えて「南無迦羅タンノウ虎ヤー虎ヤー」(これでお仕舞)』と結んでゐる。
其後私は「曉鐘」「東海遊子吟」「曙光」「天馬の道に」「アジアに叫ぶ」譯詩としてはバイロンの「チヤイルド・ハロード」(全譯)などを出したが、世間一般は私を主として「天地有情」の作者と見なしてゐるらしい。こんなことを曰ふのは憚るべき次第かも知れぬが、「天馬の道に」を比較的善いものと自分では考へてゐる。世界大戰終了の後二年、一千九百二十年三月の出版、イタリヤのダヌンチオが、東亞飛行の壯擧決定と聞いた後、大正八年九月十八日、全體の構想が一夜に成り、尋で聯想の翼の擴がるまにまに補足して成つたもの、三十六章から成るが、各章皆獨立の一篇として讀んで差支ない。天馬ペガサスが天翔ける道を飛來する南歐の詩人を歡迎する其序詩は初め「中央公論」に載つた。之を誰かが當時イタリヤ滯在の下位春吉君に送つたと見えて、同君は詩人エンリコ君と共に之をイタリヤ語に譯してナポリの書店から發行した。ダヌンチオ詩宗が之を讀んで激賞したといふことを、下位君から當時伊國漫遊中の故二高校長武藤虎太郎君を通じて報道された。
「激賞」とは大割増だらうが、一寸嬉しくないことも無かつた。序詩の伊譯はさすが伊語の性質上原作以上である。
前に戻るが「天地有情」出版の折は『坊つちやん』形氣で、序の中に『…詩は閑人の囈語に非ず…』とか、例言の中には『詩を遊戲と見なし、閑文字と見なすのは、古來の習慣であるが、此弊風が敗れぬ中は眞の詩は起らない、一般讀者の詩に對する根本觀念を刷新するのが、今日國詩發展の要素である』などゝ書き、附録に歐洲諸文豪の詩論或は詩人論を譯載した。カーライル、シエリイ、ジ
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
土井 晩翠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング