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妙念 (怪体《けたい》なる微笑を浮べつつ声調きわめて緩《ゆる》やかに)だんだん赤くなって来た。依志子、もう一度眼をあけて見ないか。血の粉を撒いたような霧が、谷の底から這い上って、珍らしい夜明けが来たようだ。空の胸まで薄皮を剥がれた肌のように生赤く、朝の風に苦しい息をついておるわ。依志子。(はじめて女体をさしのぞきて)もう一度眼をあけて見ないか、お前の顔にも赤い色がにじんで、小さな耳が、水に濡れた貝殻のように、透き通って見えて来た。依志子。(女体の傍にくずおれて這いつくばい)依志子、なぜその眼をあけないのだ、お前は死んだもののように黙っている、己たちはまだこんな夜明けを見たことがなかったのだ。(つくばいたるままにあたりを見廻して)ほんとに赤く、(すでに幕下り始む)見ているうちにだんだん赤くなって行く――
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幕下りて鐘楼の欄を覆《おお》わんとする時、再び悪鬼の三女あらわれたるがごとく、その面はすでに見るよしなけれど、黒き髪石段の上にのさばり落つ。
幕は(能うべくば華美ならざるを用いたし)妙念がもの言いて後、おもむろに閉じ終る。
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