虫のようにかみ入って来たのだ。恋を欺された女の心ほど恐ろしいものと言うてもない。あれほどあっぱれな善知識だったのが一日一日とたましい[#「たましい」に傍点]の奥を喰み破られて、もうこのごろでは狂気のいろに変ったざまだ。その上怪しい女鐘造りの依志子というに、胎子《はらご》なぞを孕《はら》まして、邪婬の煩悩になおのこと、あんなこの世からの外道とでもいう姿になってしまったのよ。この鐘も今夜はじめて音《ね》の出るように出来はしたが、性界も知れぬ怪体《けたい》の女が、胎子と一所に鋳上げた不浄な鐘だ、あのように呻くのがひびいて行ったところには、山頂きの、月の色に燃えた杉《すぎ》の梢へでも、谷底の、岩の裂け目に咲く苔《こけ》の花へでも、邪婬の霧が降らずにはいようもないわ。
若僧 その依志子という女人が山の中にいるのでございますか。
妙信 この山の麓に鐘造りの小屋をたてて、女人の工人たちと一所に住んでいる。男に怨みをかけた呪いのためかも知らぬが、女人ばかりは自在に山の上り降りが出来るので、ゆうべもこの鐘を車につんで真黒な装束をきせた女人たちに、曳《ひ》き上げさしてのぼって来たが、恐ろしいことのあった晩から、鐘の出来た夜は女人禁制という掟《おきて》になって、今夜このあたりにも姿を見せずにいるのだ。
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間。
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妙信 (若僧に向い)まあここへじっと坐っていないかというに。そのように物も言わず立っているのを見ると、和主《おぬし》の姿まで何ぞ怪しいもののように見えて来るわ。
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若僧は最前より妙信のものいえるを顧みざるがごとく、下手の方を眺《なが》めたりしが、この時|蹌踉《そうろう》としてたましい[#「たましい」に傍点]うつけたる姿に歩み出づ。
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妙信 (不安に目覚《めざ》めたるがごとく立ち上り)どうしたのだ、どこへ行こうというのだ。
若僧 (立ち止り同じ姿にて)何の声とも知れませぬ。あ、あのようにくり返して私の名を呼ぶのが、そこの谷からきこえてまいります――
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間。不安なる凝立。
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若僧 もう何にも聞えなくなってしまいました。
妙信 心を落ちつけぬかよ、耳の迷いだ。
若僧 いいえ、か細い声でしたけれどたしかに、――ちょうど物怯《ものお》じした煙が木々の葉にかくれながらのぼってでも来るように、そこのくらやみ[#「くらやみ」に傍点]からきれぎれにきこえて来ましたのです。
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第二段
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若僧はもの言いもてなお下手に歩み出づる時、あわただしげに走《は》せ来たれる僧徒妙海と妙源とに行きあう。四者|佇立《ちょりつ》。
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妙源 (手に珠数を持たず、中年にして容姿ことごとく暴《あら》らかなり。若僧を直視するにある敵意を持ちたるが、妙信に向い)ゆうべの新入りだな。
妙信 (なお不安の姿にて)お前たちは山門の傍にいるはずなのじゃないか、何ぞの姿でも見えたというのか。
妙海 (同じく中年なれど凡常《よのつね》の容貌《ようぼう》を具え手には珠数を下げたり)まだわしらが眼には見えぬというだけのことだ。もう山中の露の色まで怪しい息にくもって来たわ。
妙信 そんなことならお前たちに聞こうまでもない。わしはまた、何ぞに追いかけられてでも来たのかと思って、無益なことに爪《つめ》の先までわなないた。このような晩にはあんまり人を驚かさぬものだ。
妙海 そうはいうもののこの路だ、くらやみ[#「くらやみ」に傍点]と月明りで、いろいろに姿をかえた木や石が慄《ふる》える指をのばすように前うしろから迫って、真実、魔性の息が小蛇のように襟元《えりもと》へ追いかけてくる気もするぞい。
妙信 だが別に悪霊の姿というても見えぬに、どうしてそんな息せいてかけ上って来たのだ。
妙源 あんなところにたった二人で、見はりなどがしていられると思うかい。
妙海 ここいらにいては考えにも及ばぬ。ちょうどおとといの地崩れに、前の杉が谷の中へ落ち込んだので、門の下に坐っていると頭から蛇の鱗のようなつめたい月の光りがひたひた[#「ひたひた」に傍点]まつわりついて、お互いに見合わす顔といえば、滴《しずく》でも垂《た》れて来そうな気味の悪さだ。物を言えば物を言うで、二人とも歯と歯の打ち合う音ばかり高くきこえて、常とは似つかぬ自分の慄え声が、何ぞに乗りつかれでもしはせぬかと思う怖ろしさに、言いたいことも言わぬうち、われと口を噤《つぐ》ん
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