でしまうのよ。するとまた、お互いに出し入れの息の音《ね》が、怪しい物の地《じ》をなめずる音《おと》のようにもきこえて来る、明るみが恐ろしさにあの藪《やぶ》の蔭《かげ》へ寄って行けば、何がひそんでいるかも見えぬ灰色のくらやみが、上から上から数知れぬ指を慄わしてざわめくじゃないか。その上に時々吹きあてる風の音が――
妙源 (最前より四辺を顧※[#「目+乏」、28−上−6]したりしが唐突に)そんな話はよさぬかい、やくたいもない。
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間。
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妙海 (また同じ調子をつづけて)言い合わしもせぬうちに、ここへ来れば和主《おぬし》がいると思って、二人とも黙ったままかけ上って来たのだが、ほんとにこんなところにいては考えにも及ばぬ恐ろしさだ。
妙信 山門の傍ばかりが恐ろしいにきまったことかい、何よりもこの鐘に悪霊の呪いがかかっているのじゃないか。こうしてまっ黒な口をあけながら物も言わぬ形を見ているうちには、さっきまでなりひびいた声より幾倍か恐ろしい邪婬の呻きが、煙のような渦をまいてあの洞《うつろ》からきこえてくるわ。
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間。
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妙海 このような恐ろしい晩は聞きも知らぬ。またいつもと同じように一と打ちで微塵《みじん》にこわれてしまえばいいに、なまじあんないやらしい呻き声がひびき出したばかりよ。
妙信 さっきからわしもこの子に言うことだ。(間)だが月もあんなにまわって、だんだん夜あけ近くなって来たが、上って来ようというのならこの上時を移すまいぞ。
妙源 こんな風に怯《おび》えながら。甲斐《かい》のない見張りをしているうちには、もうとっくに上って、どこぞ雷にさかれた巌間《いわま》にでも潜んでいるか知れぬことだ。
妙信 (かすかに語調を失いて)いいや上って来たものなら、何よりも先この鐘に異変が見えねばならぬのだ。蛇体のままでか、それとも鬼女の姿になってか、一番にこの鐘へ取り付きに来ようわ。
妙源 それにしてもいま眼の前に姿が見えたらどうしようというのだ、誰ぞ退散の法力でも持っているのかい。和尚はあんなざまだしよ。
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間。四者のみずから知らざるがごとく相寄るは、水に沈み行く稀有《けう》なる群像のさまを想《おも》わしむ。池底のごとき沈黙。
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妙源 (対者を定めず)和尚はどこへ行ったのだ。
妙信 ほんとに和尚はどこへ行ったのだろう。さっきわしらがここへ来た時、ちょうど本堂の中でいつものようにわめき始めたとこだったが、気づかぬうちに声もやんだような。だが今夜こそ峰から谷へ幾めぐり、爪を立てた野猫《のねこ》のようにはせめぐっても片時落ちついてなぞいられまいわ。
妙海 (にわかにある不安を思いつけるがごとく)和尚といえば、わしたちは山門の傍で見張りするように言われていたが、こうしてここにいる姿でも見つかろうなら、悪霊の呪いが来ないまでも、また妙良のような目にあいはせぬかの。
妙源 和尚の影がさしたら、そこの森の中へ身をかくそうまでよ。あんなぼうふら[#「ぼうふら」に傍点]のような血の走った眼がぎょろぎょろしたとて、遠くから人の数なぞよめはせぬ。だがそれにしてもあの時は恐ろしかったな。妙良の奴《やつ》、つい和尚の来かかったのを知らず、依志子の腹のことを口走ったと思うと、骨ばかりの指が啖《くら》い付くようにのど元へかかって、見ているうちに目から鼻から血が流れ出すのよ。――
妙海 その話はやめにしよう。一つ一つ骨に絡《から》んだ腸でも手繰り出されるような妙良の悲鳴が、今だに耳の中で真赤な渦をまいて、思ってもぞっとするわ。
妙源 ――血でひたひたになった本堂の隅へ、悪魚の泳ぐように這いつくばって、とかげのような舌の断《きれ》を抓《むし》りながら、「執念が何だ、邪婬の外道が何の法力に叶うかい」とわめいた眼つきは――
妙信 (戦慄《せんりつ》)よさぬかというに、さもないでさえ恐ろしいこの夜更《よふ》けに、そんな話をしなくとものことじゃないか。
若僧 (唐突に妙信に向い)私はやっぱり降りて参りとうございます。たとえ行き迷うてどのような恐ろしい目にあいましても、こうして、人を沈めた沼地のようにいまわしい呪いの霧が、骨の中までしみ込んで来るところに立っているよりも、一人で路を歩いている方がいくらよいか知れませぬ。
妙海 (ほとんど何らの感情なく)もう何をいうても叶わぬわ。お前はまだ仔細も知るまいが、この山へ一度上ったからは、どのようにしても降りることは出来ないのだ。
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この時若僧ははなはだし
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